自然淘汰と生命サイクル

 
自然淘汰と生命サイクル

アリストテレスによって始められた生物学は二千数百年の歴史をもつ。その生物学史のなかで最も重要な発見はダーウィンによって行われ、1859年の「種の起源」として公表された。

自然淘汰による種の進化法則がそれで、生物界にのみ通用する、生物界に固有な法則で、40億年ほど前に原始生物が誕生した時点で初めて出現した自然法則である。したがって、自然淘汰原理を理解することがなければ、生物学を理解することは絶対にできない。

生物を理解するに当たって発する必要のある疑問は、近接要因究極要因の二つである。近接要因は、生命現象のメカニズムを問うのに対し、究極要因は生命現象の(歴史的)由来や原因を問う。この究極要因を探るうえでの指導原理になるのが、自然淘汰原理、というわけだ。これまで、敢えて自然淘汰原理について述べてこなかったが、生命サイクルとしての細胞の時空秩序を解剖するだけのためであれば、自然淘汰原理を用いる必要はなく、物理学や化学の手法だけで理解できるからだ。だが、自然淘汰原理に照らさなければ、細胞がなぜ生命サイクルになっているのか、という疑問に答えることはできないし、生物界に生命サイクルの多様なパターンが存在することの本当の意味も理解することはできないのである。

@自然淘汰

自然淘汰はとても単純で論理的にやさしい原理であるが、これほどに誤解されている原理は他にないだろう。まず、社会ダーウィニズムや弱肉強食とは全く独立であるので、そのイメージを捨てないと、理解することはできない。第二に、これと関連して、「生存競争」という言葉がイメージさせる利己性や貪欲性とも無縁である。第三に、自然淘汰の作用する単位は、生物個体(細胞または多細胞個体)であり、種ではない。種の進化とは、種内のメンバー(生物個体)の適応度が上がっていくことである。種族維持という言葉が依然として使われているようであるが、生物の生命サイクルは、種(という全体)を残すためのものではない。
自然淘汰は、種内メンバーが異なる繁殖成功度をもつために生じる。

遺伝的形質としての繁殖成功度

繁殖成功度は、ある個体が、遺伝的なプログラムとして次代に残す繁殖可能な子孫数の期待値である。あくまでも、遺伝的な形質であることと期待値であることに注意したい。

繁殖成功度の環境依存性

繁殖成功度は遺伝的形質(生理、形態、生態、行動)であるが、同時にそれは生物のおかれている物理的環境や生物的環境に強く依存する。

このように、どのような遺伝的形質が子孫を残すうえでどのように貢献するかは、その生物のおかれた環境に強く依存する。繁殖成功度に影響するのは、種に固有な環境であり、全生物界に共通する普遍的な環境ではない。この意味で、以降、局地的環境ということにしよう。

局地的環境の変化

局地的環境は、もちろん不変ではない。地質学的要因によって変わることはもちろん、生態系の遷移によっても変わる。また、自らの種の生物的作用によっても変わることを見落としてはならない。

生物による環境変更で最も劇的でかつ影響力の強いものはシアノバクテリアによる酸素放出であろう。酸素という、それまで極めて稀だった分子を蔓延させることによって、酸素傷害に対する耐性、酸素の利用性(酸素呼吸)、あるいはオゾン層の形成を介して陸上生活の可能性を準備するなど、局地的環境は大きく変わった。

また、人類による技術活動も、環境が短期的に改変されるという点ではめざましい。つまり、人類は自らの繁殖成功度を左右する局地的環境を意識的に改変するユニークな動物である。特に、近代医療や福祉の充実は、有害な遺伝子を蓄積すると言われるが、これはちょっとした誤解である。というのは、近代医療や福祉は、現代人のおかれた局地的環境の重要な因子(生物的環境=社会関係)であり、この局地的環境のもとでは「有害遺伝子」も有害ではないからだ。ただし、近代医療や福祉を行う社会的余裕がなくなったときには、あきらかにその「有害遺伝子」は繁殖成功度を大きく低下するように作用することを、おぼえておいて欲しい。

突然変異による繁殖成功度の変化

生命サイクルの実現によって、細胞(または生物個体)は遺伝的プログラム(DNA)を複製し、自己増殖するが、このときDNAの複製は必ず誤りを伴う。これが突然変異である。この誤りは、自由エネルギーを100%のエネルギー効率で仕事に変換することはできない、という熱力学の第二法則による必然であることに注意しよう。或いは、情報を100%の正確さで伝達することはできない、といっても良いだろう。

DNA塩基のの相補的塩基対結合の精度は90〜99%(誤りの確率は1〜10%)程であるという。このため、現実には三段階の誤り修復メカニズムを生物は備え、誤りの確率(つまり変異率)を1000万分の1%〜1億分の1%にまで抑えている。つまり、酵素を利用した誤り修復によって複製の精度を1000万倍以上あげているのである。

こうしたメカニズムをもつという事実は、変異が一般に有害であるということと対応しているし、生命サイクルが「自己」を増殖する過程なのだということも示している。いずれにしてもDNA複製の誤りは避けられないから、個体群(同一種の個体からなる生物集団)は互いに繁殖成功度の異なる変異体の集合になる。

変異は複製の誤りであるから、避けることはできない。このことはまた、変異の内容が全くランダムに(でたらめに、偶然的に)決まる、ということでもある。したがって、生物には、ラマルクが想定したような「高等化」に向けた内在的な力は全くない。
もう一つの遺伝的変化は、性的生物に固有なDNA組み換えによる。一般的な組み換えは、生殖細胞(または接合子)の減数分裂時におこる酵素的過程であるから、複製の誤りではない。その意義については第二部で考察する。

自然淘汰による最適者の創造

繁殖成功度のより高い生物の子孫によって個体群が占められる。これが自然淘汰原理であり、ほぼ自明の論理である。他の個体よりも繁殖可能な子孫をより多く残すような遺伝的形質(つまりより適応した形質)が個体群に広まることを疑うことはできない。こうして、個体群のメンバーは適者の子孫に置き換わっていく。これを種内進化という。

ダーウィンによって特に指摘されたことの一つは、生物が実際に生き残る数よりもずっと多くのこどもを産む事実である。偶然的要因はどのこどももほぼ同じであるから、生き残って繁殖に参加できるこどもは繁殖成功度が一番高いものである。もちろん、本当は最適者なのに、事故などの偶然的要因によって繁殖できない場合も実際にはあるだろうが、全般的傾向として平均すれば、最適者が子孫を残す確率が一番高いことは揺るがない。

また、一つの種は特定の局地的環境を要求するから、(生物的環境を含め)環境資源は有限である。このため、個体群の数は、ある有限値に抑えられているのがふつうである:爆発的に増加することはあっても、そのあとは急激に低下してしまう。したがって、適者による置換を避けることはできない。

既述のように、変異内容はランダムである。したがって、形質を進化させる力は自然淘汰にある。繁殖成功度が環境依存的であるから、どのような形質が進化するかはもちろん局地的環境に依存する。

なお、種を変化させずに、種内の個体の繁殖成功度を向上させるような進化を小進化といい、これに対し種レベル以上の大きな分類群を生み出す進化を大進化といって区別する。大進化の基本は、新種の形成(種分化)にあり、その際に自然淘汰が作用するという点では種内進化と同じであるが、変異内容が本質的に異なる。この問題も第二部の課題とする。

自然淘汰と生命サイクルの目的
 
細胞周期(または生命サイクル)の不滅性

生命サイクルは自己増殖過程である。一つの生命サイクルの完結は必ず自己増殖に導き、次の生命サイクルの開始となる。この生命サイクルの連鎖は、われわれ地球生物全体の共通祖先の細胞が約40億年前に誕生して以来、一度も途絶えることなく続いている。したがって、生命サイクルは(プロセスとして)不滅である。くどいかも知れぬが、ひとも原始の祖先細胞も、全く同一の生命サイクルを共有している:細胞(または多細胞個体)の蛋白質の作用ネットワークを用いた生命サイクルの実現という、遺伝的プログラムの実行。

ただし、この自己増殖は必ず複製の誤りとしての変異を伴うし、性的生物であれば遺伝的組み換えも生ずるから、細胞(または多細胞個体)(すなわち、生命サイクルの表現形態の具体的パターン)は、サイクルを重ねる毎に姿を変えていく。この繰り返しのなかでさまざまな変異体が生まれ、生命サイクルは種毎に異なる多彩なバリエーションとなって、多彩な環境に分布し多彩な環境をつくってきた。これは、最初の生命サイクル(祖先細胞)(自己増殖過程)の分布拡大である。

しかもこの多様化と分布拡大は、それぞれの環境のその時々における最適者の選抜によって行われる。このため、生命サイクルは、常に改良されてきている。

こうした観点から遺伝的プログラムを解剖すれば、細胞周期(または生命サイクル)の位相進行に関係する遺伝子群、蛋白質合成や解糖、呼吸系など自己更新的生合成に関係する遺伝子群、とその具体的なパターンを指令する環境適応の遺伝子群に分けることができるだろう。発生のプログラム(形作りのプログラム)も、発生過程が環境に対する応答として進行するものでないにも関わらず、生物の分布が細胞(または多細胞個体)のかたちや内部構造に強く依存していることからして、環境適応の一つの特殊のパターンである。

生命サイクルの目的と生命メカニズム

ある過程が、予定された結果を誘導するように働く場合すなわちこの結果を志向する過程であるとき、この結果のことを目的といい、この過程のことを目的律的(テレオノミックな)過程という。

生命サイクルは、自己増殖(生命サイクルの伝達)という結果を誘導するよう予め遺伝的にプログラムされているから、自己増殖(生命サイクルの伝達)を目的とした過程である。自己増殖(生命サイクルの伝達)は、生命サイクル過程の単なる最終結果ではなく、予定された最終結果なのである。

自然淘汰は、繁殖成功度においてすぐれた生命サイクルを選抜する。生理、形態、生態、行動、、、など生命現象のあらゆるレベルで生ずる遺伝的変異は、それが繁殖成功度の増大に寄与する限り選抜され、生命サイクルの目的達成に貢献する。つまり、すべての生命現象は、生命サイクルの目的のよりよい達成にむけらたメカニズム(しくみ、手段、方法)となっている。言い換えると、

自然淘汰は、生命サイクルのよりよい目的達成を実現するあらゆるメカニズムを進化させる。
これが、生理、生態、形態、行動(意識)のさまざまなバリエーションの実体である。

生命サイクルの目的は意識されることはない。だが、自然淘汰は、生命サイクルの目的を、生物が意識することなく思わず知らずに達成できるような巧妙な手段(しくみ、メカニズム)をさまざまに生みだしてきた。生物界に見られる、形態・生理・生態の多彩なパターンのほとんどすべては、このようなメカニズムそのものである。つまり、生命活動の総体は、生命サイクルの目的を達成するためのしくみなのである。

哺乳類におけるその特殊な一形態が喜怒哀楽の感情で、これに基づいて動機や日常的な意味での目的が生まれるのである。われわれは、生命サイクルの目的達成に有利な状況に快楽を感じ喜ぶ反面、不利に働くような状況には不快感をおぼえ、怒る。この喜怒哀楽を超越できるものこそ宗教家なのであろうが、超越した瞬間にその宗教家の人生は無味乾燥で無感動の殺伐としたものになっているはずである(から、誰もこれを超越することはできないし、この意味での宗教家は存在し得ない)。
 

生命サイクルの目的と意識のなかの目的

生命サイクルの目的は、意識的な目的や行動の動機とは異なっている。後者は生命サイクルの目的をよりよく達成するための手段(メカニズム)として進化してきた一つの遺伝的形質である。したがって、人生の(意識として有する)目的は、生命サイクルの目的とは根本的に異なっていることに注意しよう。ひとが「生きる目的」は、各自の自由意志による選択に完全に任されているが、ひとの「生命サイクルの目的」はすべてのひとに共通であるし、バクテリアのそれとも共通で、ひととして(生物として)生まれ落ちたことによる必然的な目的であり、これから逃れたり反逆したりすることは絶対にできない。

意識のなかの目的は、例えばひとの場合、完全に個人の自由意志の選択に任されているようにみえる。だが、生命サイクルの目的を反故にするような「人生の目的」をとるひとは、極めて少ない:日本の仏教の僧侶は、「生命サイクルの目的」に沿って人生を積極的に享楽する立場をとっているので、とても人間味があるが、宗教家としての「神聖さ」は微塵も感じられない。この現実は、意志が、遺伝的プログラムから完全には自由ではないことを反映している。意志は神経回路の働きであり、神経回路の働きはその結線の仕方に依存するが、それは遺伝的要因と経験の二つによって決まる。遺伝的要因として決定されていると思われることの一つは、すべてのひとは快楽を求める、という神経回路の配線である。「苦行」も一つのマゾヒスティックな快楽の形態に過ぎない。不快を求めるひとがいるとしたら、そのひとはすぐに死ぬか、すくなくとも生命サイクルを実現することはできない。

快楽を求めない哺乳類は生命サイクルの実現を全うできない。言い換えると、快楽とは生命サイクルのよりよい目的達成のためのメカニズムの一つである。これは、環境適応の一つの形態であって、たとえば大腸菌がPTS輸送系によって輸送される糖を、パーミアーゼによって輸送される糖より、優先する(すなわち、好む)ということと基本的に同一の対応である。快感や不快感は神経回路の発火パターンの相違によって感ぜられるが、大腸菌の場合はサイクリックAMPの増量により「不快感」を表し、ラクトースオペロンの発現を解除する。

逆に言うと、生命サイクルの実現に利する刺激に対しては「快感」を、不利にする刺激に対しては「不快感」を感ずるように、そして「快感」を求め「不快感」を避けるように、哺乳類の大脳辺縁系はできあがるようになっているのである。これと矛盾するどのような配線も生命サイクルの実現を果たすことはできないから、このパターンから自由になれるひとは出現することは絶対にできない。したがって、意識のなかの目的は、生命サイクルの目的からは自由ではなく、むしろ生命サイクルの目的を実現するよう予め遺伝的にプログラムされているのである。

もちろん、意識のなかの目的は、ひとそれぞれに個性的でありうる。だが、基本的には食慾・飲水浴・睡眠慾・性慾などの一時的本能から自由である人は一人もいないし、権勢慾、名声慾、金銭慾、好奇心、社会(的共感)本能、母性本能等々、、、ひとはふつう欲望の塊である。そのそれぞれがどの程度に強くどの程度に弱いかによって、ひとそれぞれに個性的な欲望パターンがうまれ、これに応じて意識のなかの目的が「まことしやかに」つくられる。生に対する執着もこの欲望の過多に応じてさまざまな強さになりうる。

したがって、意識のなかの目的の、ひとによるバリエーションの大きさは、ひとが思うほどに大きなものではなく、生命サイクルの目的実現という大道のちょっとした雑音に過ぎない、ともいえる。だがまた、「雑音」とはいえ、ひとにとっては「欲望」が極めて大きなものに映るのも確かである。何故なら、欲望が小さいひとほど、したがって「生に対する執着」の弱いひとほど生命サイクルの実現には向かないからである。欲望が遺伝的に強いほど繁殖成功度が高くなるのは、このように明らかなように思われるが、実はそうではない。ひと(哺乳類一般にも)には必ず知恵が備わっている。肥大化した欲望の数々を互いに調整し、コントロールしなければ、暴走することもまた明らかだからだ。知性(知的な能力)は遺伝的形質であり、その一つの働きは欲望の制御であろう。つまり、知性が欲望をコントロールできるほどに強くなければ、実際には繁殖成功度(遺伝的形質であることに注意)は高くならないのである。
欲望や知性が後天的な経験によって変容されることも見落としてはならないが、これについては第二部の課題とする。

生命サイクルの目的の所在

生物学は唯物論であるから、実体のないものは認めない。意識のなかの目的は明らかに神経回路の特殊な発火パターンである。では生命サイクルの目的はどこにあるのか。

それは、例えば哺乳類の意識(脳)に上ることはないから、大脳における感情回路や思考回路の発火パターンでないことは明らかである。また、遺伝子の全体(ゲノム)も、それ単独としては何の作用も行わないから、ゲノムに局在するとも思われない。またもちろん、個々の蛋白質にあるわけはないし、その全体としての集合にあるわけでもない。

したがって、生命サイクルとしての生命統合つまり生命としての過程そのもの、すなわち生命サイクルとしての細胞や多細胞個体の全体的統合(時空秩序)にのみ存在するものである。言い換えてみよう。「生命サイクルの目的」という言葉で表されている客観的実体は、個々のの生命サイクルの、遺伝的にプログラムされた(予定された)最終結果(生命サイクルの伝達、生命の生まれ変わり、自己増殖)である。


ホーム(生命を考える)へ テーマ別入り口 生命とは何か(目次) 生命とは何か(最後のまとめ) 前ページへ メール頂戴ね