なわばりから群れへ


人間は独りでは不完全な、あるものである。幸福になるには、第二人者を見つけなければならない

パスカル:愛の情念について(17世紀中頃)

動物は、愛と同情のほかにも社会本能と結びついた性質、人間でなら道徳と呼ばれる性質を表す:犬が良心によく似た何かをもっているとする点で私はアガシーの意見に賛成である。犬は何らかの自己規制の力をもっているのだが、それが恐怖だけから来るようには見えないのである。

社会本能は、幼い動物が両親と長いこと一緒に暮らすことによって進化してきたのだろう。だから、社会生活によって感じられる歓びはおそらく親の愛情や子どもの愛情の延長なのだ。この延長は一部は習得によるものだが、基本的には自然淘汰によって備わったものと思われる。

ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰)
第二版 1871より(訳書あり)

ゾウやイルカ、キツネザルがお互いにとてもよく、信じられないぐらいに援助しあうことから、こうした傾向が多くの哺乳類によく発達していることはすぐ理解できます。世話を焼いたり同情したりする性質は、類人猿--人間の系統より遥かずっと昔に溯るのです。

France De Waal, Good Natured The Origins of Right and Wrong
in Humans and Other Animals, 1996 より(訳書あり)

私たちのこころは、体験を通じて発達していきます。それは、予め遺伝的に備えられた人間固有の心的パターンを素材に出発します。その素材は人間という種に固有であることはもちろんですが、赤ん坊の容貌が個性的であるように、既に個性的であると思われます。生後の個別の体験は、この個性的素材に磨きをかけ、本人にしか味わえない具体的なこころをかたちづくります。

(→「人間の本性と体験」

こころが遺伝的基盤をもっているということは、それが人類と霊長類の歴史の刻印を受けているということでもあります。
ここでは、私たち自身のこころの内面(感情や本能の動き)が、人類の系統に至る霊長類の社会進化と密接に関係していることについて考察します。私は、この社会進化(したがって、こころの進化)の起動力が育児負担の増大であるとする川村俊蔵の仮説が、最も合理的な説明であろうと考えます。

なわばり根性(排他性、自己防衛本能)

人間の奥深くに潜み、絶えることなく続いている利害対立の主な要因となっている「なわばり根性」(現代の社会形態では、プライバシー権とか財産権として保護されることになっている)を思い浮かべるだけでも、われわれの祖先が、まずはなわばり生活者として出発したことは容易に想像できます。

個人間の利害対立は、自分の利益(えさ(なわばり)や子ども、パートナー)を守るために他者を攻撃するという形を取ります。攻撃本能が自己防衛本能(自己保存本能)と固く結び付いていることがわかります。この性向が遺伝的に弱い個体が、子孫を存続させる上で不利なことは明らかです。事実、現在の人間(すべての動物)はすべて、自己防衛本能をきちんと(遺伝的に)身につけているのです。

母親の育児負担の強化

私たち霊長類が、他の哺乳類に比べ、からだの大きさ(サイズ)の割にはずっと長生きするのをご存知ですか?平均寿命もそうですが、ここで問題にしているのは、生理的限界寿命のことです。つまり、最大限どれだけ生きられるか、の最長寿命です。

生理的限界寿命だけではありません。妊娠期間、赤ん坊期間、こども期間、成熟期間、、、のどれも、つまり生活史全般に亙って、霊長類は、サイズの同じ他の哺乳類と比べ、延長しているのです。つまり、発生全般が遅れています(発生遅滞)。このことは、霊長類だけの特徴ではなく、ウサギのように、死亡率の高いものたちは、サイズの割に生活史全般が速くなる傾向をもっていますし、一回に多くの子どもを産む傾向があります。ゾウは、サイズが大きいのでそれだけで生活史全般に時間がかかりますが、仮にゾウと同じサイズをもつ哺乳類が他にいたとし、またその哺乳類が平均的な生活史パターンをもっていたとしたら、ゾウはそれに比べても生活史が遅延しているのです。このことを、ゾウはサイズの割に生活史全般が延長している、というのです。

ここで、一見関係のなさそうなことを述べましたが、実は社会構造の進化にとっても(したがってこころの進化にとっても)大いに関係があるのです。発生遅滞を起こしている霊長類や、コウモリ、ゾウなどは、サイズの割に母親の育児負担が強化されているからです。妊娠期間と赤ん坊期間(授乳期間)は、哺乳類の母親にとってミニマムの育児期間です。

育児期間の延長は、一方で母子の紐帯を強めます。また、母親の負担が増大しますから、どうしても母親だけでは育児できない社会状況を生むのです。したがって、人類の系統に至る、なわばりから群れへの社会構造の進化の上では、この育児負担を誰が援助するか、という点を軸にして展開してきた、と思われるのです。個体は、基本的に排他性(なわばり根性)をもっているという点に留意して下さい。

群れ本能(利他性)
なわばり根性の対極に、祭りや集団スポーツなどで見られる集団的狂喜(乱舞)や、家族、友人、愛人に向けられた「静かな」愛情があります。個々に少しずつ異質なものを含みますが、どれも群れ生活者としての生活に密接に関係していますから、群れ本能、社会本能と呼ぶことにします。群れ全体または群れ内部のメンバーどうしの絆を高める働きをもっています。

では、この絆の外との関係はどうなるか。絆が強まれば強まるほど絆の外に対しては疎外的になります。また、外からの脅威が強ければ強いほど、絆が高められていきます。つまり、絆が強ければ強いほど(愛情が深ければ深いほど)、自己が絆(群れ、家族、友人、愛人、、、)自身に昇華され(一体化され)るため、自己を無意識的に守るということとほとんど同じ本能によって絆を守ろうとするのです。

絆をつくる愛情は、外敵に晒されない限り、外に対しては無関心です。しかし、ひとたび外敵の脅威を感じると、愛情は更に深まるとともに、外敵に対する憎悪を募らせていきます。恐怖心が強まれば強まるほど、愛も深く憎悪も強くなっていく。

群れという社会形態は、個体の利他性や愛情の進化とあい携えて(相互増幅的に)進化してきたはずですが、それは個体の自己防衛本能を消滅させるかたちで進んできたわけではないことが、以上の考察から明らかです。自己防衛本能を残したまま、新たに愛情を付け加えたということでしょう。

言い換えると、なわばりから群れへの進化とは、なわばりの全面否定ではなかった、ということです。群れの誕生の一つの側面は、群れの結束を高めることによって、他の群れに対しては群れとして防衛する(群れなわばりをつくる)ということです。しかも、ここで言う群れは、精々数十名程度の小さな部族です。二千億年以上に亙る祖先霊長類や原始人類の進化において、生活の単位はこうした部族であったと思われるからです。



文献1
川村俊蔵  霊長類の社会 霊長類学入門(江原他編、岩波書店)所収、1985

伊谷純一郎 霊長類社会の進化  平凡社、1987

河合雅雄  人間の由来 上下  小学館 1992

進化的利益

適応度(=繁殖成功度)

利他行動

  • これは看過できぬ重要な誤りです。適応度は遺伝的形質なのです。個体は行動を通じて自他の遺伝的形質を変化させる(能力を持っている)のだ、ということが↑の定義の論理的帰結の一つです。遺伝的形質は個体が生まれ落ちた時に親から引き継ぐ形質ですから、自他の適応度を変化させる為には遺伝子の作為的改変が無ければ不可能なのです。

  • 遺伝子の作為的改変がなくても(当該個体の)適応度が変化する場合があります。それは、当該個体の生存中に物理的・生物的環境が 変化する場合です。例えば、社会事情の悪化によって医療活動が急激に低下する場合、病弱な遺伝的形質を持った人々の適応度は明らかに低下するからです。しかし、例えば、あなたが特別に人よりも余計に利他行動を受けたとしても、あなたの適応度があがるわけではありません(あなたの生存率や繁殖率はあがっているはずですが)。ゲノム内容が不変一定である時、その適応度を変えうるのは(当該個体と相互作用をもつ)環境の「変化」のみです。行動面に限定して言えば、適応度を変えうるのは(当該個体と相互作用をもつ)他者の(社会の)行動の「変化」であって、行動そのものではないのです。

    部族的本性:帰属意識と人間の歓び
     人間は群れ動物であり、単独生活者としては完全に無力である。人間の群れは核家族を単位にしている点に大きな特徴があるが、今は措く。
     人間にとって最も辛いことは村八分である。社会的孤立は人間にとって絶対的恐怖なのだ。

       村八分を恐れず正義を守るために戦う強い人々が少数派ではあるがいる。こうした人々は、日常的に生活している村(例えば日本国)の外に、知性的に帰属意識を寄せている。だからこそ、狭い村からの村八分に耐えることができるのだ。
       その他大半の人々は、この狭い日常的な(大小さまざまな)村からのつまはじきを潜在意識として強く恐怖しながら生活している。長いものにはまかれろとする集団的迎合は、この潜在的恐怖の直接的結果である。しかし、人間社会が重層化すればするほど(これが人類史の傾向)、この態度は正義にもとるものとなってくるし、当の村の存続さえ危機に陥れる可能性をもつ。
       したがって、人間にとって真の勇気とは、より広い正義のために戦う(精神的)強さがあるかどうかにかかっている。日中侵略戦争や太平洋戦争の第一の責任者は当時の国家リーダーたちにある。それを批判することは必要であるが、それだけでは、忌まわしい戦争を避けるためには十分ではないのである。だが、わが国はこの必要条件さえ十分に行ってきていないのだから、十分条件(より広い正義を守る勇気を育てること、あの戦争における国民の集団的迎合について自己批判すること、、、)なぞ望むべくもない。
       一方、いじめは、この部族意識を巧みに利用して行われている。いじめる側のこどもたちは個人的で嗜虐的な快感と同時に団結に伴う様々な快感(闘争心とか集団的狂喜、共感)を味わっているはずだ。同時に、その結束の強さは、自らをつまはじきにされる恐怖を生むから、結束は(他の介入がなければ)自己触媒的に強化されていく。同じ社会に住みながら、いじめる子といじめない子がいるのだから、いじめは第一にいじめる本人とそのように育てた親の責任である。もちろん、年々、子どもを育てにくい世の中になってきたことは国民全体(社会構造)の責任であり、教育改革をはじめとした社会変革が不可欠なことは当然のことだ。
     社会的孤立に伴う絶対的恐怖を社会本能の裏の面とすれば、その表は集団的狂喜(乱舞)であろう。お祭りのドンチャン騒ぎや団体競技から戦争まで、すべてが集団的狂喜(乱舞)を与えてくれる。もちろん、知性や理性を抑制できればできるほど、この狂喜は高まり、歓びは大きい。

    社会的存在感、自尊心、「人間の価値」
     意識するとしないとに関わらず、人間は日常的生活において、この中庸に属する社会的存在感を求めている。社会的存在感とは、結論的に言えば自尊心が満たされた状態、すなわち群れメンバーとしての資格を(潜在意識としてでも)実感している状態である。群れメンバーとして私は価値があるのか、ということだ。
     もちろん、クローン人間の尊厳で論じたように、人間は出生や地位や才能、財産に関わりなく全人格としては対等の価値、それ自体の価値(他者の評価を媒介としない価値)をもつ生命として処遇されなければならない。これが「人間の尊厳」や「個人の尊重」の精神であった。
     各人の社会的存在感(自尊心)を満足させるためには、最低限、各人の「人間の尊厳」が守られていなければならない。つまり、「人間の尊厳」という社会意識(社会的スローガン)は、人間が自尊心を満たして生活していくためのぎりぎりの必要条件に過ぎないのである。道具として扱われる限り、人間は自らを卑下せざるをえず、群れに参画する意欲など望むべくもない。
     「人間の尊厳」性が守られ、なお群れに何か貢献できるとき、人間は自尊心を満足させ、充実した日々を送ることができる。この貢献の内容は、当人が「貢献している」と(潜在意識としてでも)実感している限り、当人にとっては何でもよい。しかし、それが正義にもとるものであっては群れにとって(ふつう、当人が帰属しているつもりの群れより広い群れにとって)は困る。

       このように、自尊心は自己に対する肯定的な社会評価によって満足されるものである。また、自尊心は人間生命の根幹であるから、各人は「肯定的な社会評価」を得るために努めることになる。もちろん、われ関せずというひともいるが、その自信は当人が揺るぎない「肯定的な社会評価」を得ているとの自覚に由来する。
       さて、現代の深刻ないじめ問題。「いじめたい」という衝動の基本的な社会要因の一つは、自尊心を得にくい現代の子ども生活にあるだろう、と思われる。なぜなら、自尊心の満たされている子どもが、「いじめたい」という衝動に駆られるとは到底思えないからだ。
       自尊心の不満は、人間の根幹的不満なのである。いくら勉強が良くできて級友の称賛を浴びても、勉強のできる自分は、本当の自分ではなくて、親の満足のための道具であるとしたら、それは空しい。また、親が喜ぶとしても、それが親の自己満足のための歓びであったとしたら、当人にはそれが自分自身のための歓びではないことを敏感に察知する。
       親の果たせなかった夢を子どもが叶えてくれることは親の歓びには違いない。また、子どもの名声が親の自尊心を満足させることも確かであろう。だが、子どもが親とは別個の人格(個人)であることを尊重しないと、結局、親は子どもを本当は愛していないことになる。なぜなら、その親が愛しているのは他ならぬ自分自身だからである。人間が他者(親にとっての子どもも)を愛するためには、その他者が自分にとっては神聖不可侵な存在であること(個人の尊重)の自覚、つまり他者に対する謙虚な態度が絶対的な条件である。もちろん、親はわが子を躾なければならないが、あくまでもその子の自尊心を育むことが前提なのだ。
       もちろん、現代の「自尊心の不満」現象は歪んだ親子関係にのみ由来するものではない。受験地獄(偏差値による社会的評価の烙印)や管理教育(学校教師の権威の低下の裏返し:権威という精神的支柱が崩壊すれば、精神的暴力に頼らざるを得ない)(管理からは学校教師による愛情を感じとることはできない)など改善すべきことはたくさんある。しかも、思春期前後は最も精神的に不安定な時期である。
    社会の重層化と「肉体と精神の不均衡」
     肉体的成熟は、現代社会では精神的(社会的)成熟より大分先行する。それは、社会人として成長するために学ぶべきことが、社会の重層化に伴って増大したからである。
     しかし、例えば、思春期が性の目覚めであるとしても、それは同時に社会的正義への目覚めでもあり、社会的自己の目覚めでもあることが示すように、思春期は肉体的成熟と精神的成熟が乖離せずに進行するのがつい最近までの成長パターンであったろう、と思われるし、それが人間成熟の遺伝的プログラムであろうと思われる。しかし、いくら精神的に成長しても、親からの経済的独立がなければ、社会人とは言えない。この経済的独立を阻むものが産業構造の高度化である。
     少なくとも、昔の農業や狩猟採集の経済であれば、社会人になるために高校や大学で勉強する必要はない。中学教育さえ必要ない。明治政府が義務教育としたのは、農業や漁業を支える人材が欲しかったからではなく、富国強兵に役立つ人材を育てたかったからなのだ。もちろん、戦後は高度経済成長を支える人間が「期待される人間像」であった。
     つまり、産業構造の複雑化に伴い、現代の子どもの多くは社会人としての資質を得るのに昔よりずっと長い生長期間を必要とするようになってしまったのだ。これはある意味で可哀相なことだ。肉体はおとなになっているから、本人にしてみれば一人前のつもりでいる。だが、社会や学校はそのようには評価してくれない。この評価自体は正しいが、それを管理教育に転嫁するのは悪循環の構造を作るに等しい。
     このような状況で何より求められていることは、主体性の尊重、つまり責任ある自己を育てるような躾と学校教育であろうと思われる。だが管理教育が育てようとするのは理想的兵卒であり、理想的兵卒は自己の行動に責任をとれる人間とは対極にある。
     もちろん、自由主義の社会的風潮のもとでは、理想的兵卒は育つはずがない。人間は自由を求めるからだ。だから当然のこととして反乱が起きるのも無理はない。また、親の自己満足の手段としての「お勉強」も、結局のところ「理想的兵卒」を育てる試みであるが、もちろん、子どもがいつまでもそれに甘んじるはずがない。ではどうすれば良いかというととても難しいが、子どもの自主的判断を最大限に尊重する(可愛い子には旅をさせろ)ことに尽きるのではないか? ただし、「尊重する」とは全面的に任せる(放任する)ということではないし、正義にもとることは絶対に許してはならない。

    のがものはこれであるからだ。


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