氏か育ちか
 

犬や馬、その他の家畜の心的性質が遺伝することは明らかだ。特別な好みや習性のほか、一般的な知能、勇気、機嫌の良し悪し等々、確かに遺伝される。。。。われわれが飼っている犬は狼とジャッカルの子孫である。彼らは、狡猾さを獲得せず、また警戒心と猜疑心を失ったかも知れないが、愛情の深さとか信頼に足るということとか、気だての良さといった道徳的な資質や、またおそらくは一般的な知能を発達させてきたのである。
ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰) 第二版 1871(今西訳)より
 
パーソナリティの遺伝:親の望み通りにこどもは育たない
 
 

パーソナリティが遺伝するということの最も有力な証拠の一つは今でも、ダーウィンが最初に指摘したように、そもそも人類が野性動物の家畜化に成功したという事実に求められる、とされる。だが、前節(ろ)で考察したように、パーソナリティの遺伝性は論理的に証明できる。こうして、経験事実すなわち単なる知識が、科学的真理とみなされる。
さて現在、パーソナリティは次の5つの形質によって特徴づけられるとされている。外向性、神経症的性格、良心、好感性(協調性)、率直性(開放性)。

外向性:社交的で決断力があり、口がうまい。またリーダーシップをとるのを好む。
神経症的性格  :情緒不安定で、神経質。また怒りっぽく心配性である。
良心(誠実) :計画性があり、きちんとしている。責任感があり信頼性が高い。
好感性(協調性):友好的で快活。同情心があり、暖かく親切で、気だてがよい。他人を利用したり騙したりしない。
率直性(開放性):洞察力が高く、知的好奇心が強く、独創性がある。想像力が豊かで、新しい刺激や経験に対して開放的である。

 遺伝率ゼロの場合、個体間の表現型(身長や性格など)の違い(個性)はもっぱら環境因子に由来する。逆に、遺伝率1(100%)の場合は、個性の由来がもっぱら遺伝子に由来し、環境因子の寄与はゼロとなる。前述の5つの性格特性について、一卵性双生児や二卵性双生児を用いて調査された。
遺伝率が高ければ、一卵性双生児は同一家庭に育てられようと、養子に出されて別々に育てられようと似た性格を示す。二卵性双生児は、別々に生まれてきた兄弟姉妹間と遺伝的差異の割合は等しいので、二者の性格の差はふつうの兄弟姉妹の間の差と異ならない。一方、遺伝率が低く、家庭環境が100%の寄与をするとすれば、同一家庭内で育てられた一卵性双生児の類似度と同一家庭内で育てられた二卵性双生児の類似度は全く同じはずだ。また、この類似度に比べ、別々の家庭で育てられた一卵性双生児の類似度は低くなる。
こうして、大量のデータが集積され、統計的分析にかけられた結果、驚くべきことに、パーソナリティはほとんど遺伝的形質によって決まる、との合意が現在得られている (T.J.Bouchard,Jr. Science 264:1700-1701, 1994)。5つのどの形質についても、遺伝率は42%であるのに対し、家庭環境(共有の環境因子)の寄与率は7%にすぎない。残りの半分(約20%)は非共有の環境因子による寄与、半分(約31%)は測定誤差に由来するとされている。従って、測定誤差を除いて信頼できる部分だけを計算すると(69%を1とみなすということ)、遺伝率はほぼ3分の2(約60%)であり、家庭環境の寄与率は10%、非共有の環境因子の寄与率は約30%となる。ただし、こうした量的遺伝学でいう環境因子は、すべての非遺伝性の成分、例えば非遺伝的なDNA変異(体細胞変異、遺伝子インプリンティング、DNAの不安定配列などに由来)を含んでいることを考えると、DNAの寄与率としてはもっと高くなるだろう。いずれにせよ、血縁者同士が互いによく似た性格を示す理由は、基本的には遺伝子が似ているからなのであった。
ただし、このことは性格が後天的に形成されることを否定するものではない。こどもは誕生した時点で、すでに個性的な性格を示す。乳がでないとすぐ諦める赤ん坊もいれば、それでもしゃにむに乳を吸う赤ん坊もいる。よく微笑みかける赤ん坊もいれば、愛想を示さない赤ん坊もいる。当然、親や周りの育て方はこどもに応じて変わってくる。つまり、
育てられ方を決めるのは自己の遺伝子である
こどもの性格を決める遺伝子は、まず初期の性格(表現型)を決定し、これによって育てられ方を決定する。この周囲の態度が、今度は自己に跳ね返って、自己の遺伝子に固有な性格特性を強める方向に作用する。いいかえると、遺伝子と環境との正のフィードバック作用によって性格特性が完成する。
もちろん、親や周りの人々の意向に則して、強引にこどもを育てることもできるだろうが、その寄与率は高くないし、こどもにストレスがかかることが予想される。前節(ろ)原理(ね)を想起すること。
この知見を育児に即して考えると、親の望み通りにこどもは育たない、ということだ。自分とパートナーとの偶然的な遺伝子の組み合わせ(組み換えと受精)によって、受精の瞬間にこどもの大部分の性格は決定される。こどもの本来的(遺伝的)性格に反して親の望みにあわせようとする態度は、おそらくこどもに過度なストレスを引き起こし、葛藤を生むだろう。したがってまた、自分の望むパーソナリティを持ったこどもが欲しいと思えば、そのようなパートナーを選択するのが無難であろう:ただし、自分とパートナーの性格の相性は全く別の問題である。

知能の遺伝など
なお、出生順序は、広く信じられていることに反して、パーソナリティにほとんど影響しない。また、こどもの行動の違いは、親の態度の違いに起因するものではなく、むしろ逆に親の態度の違いを導く要因である。更に、身体的魅力とパーソナリティのタイプとはほとんど無関係であること、つまり相互に独立な遺伝的形質によって決められていること、もわかっている(前掲Science)。
Plomin,R et al. (Science 264:1733-1739, 1994)の総説によると、
自尊心、社会的態度、性的指向性(sexual orientation)なども遺伝率が比較的高い。また、
学力や一般的知能、空間論理能力、言語的論理能力の遺伝率は前節のパーソナリティと同じく、40%?50%の範囲にある(誤差部分を除けば約3分の2になるだろう)。
これに対し、
記憶力や計算速度の遺伝率は20%ほどに落ちる。

更に興味深いことに、発生遺伝学的な追跡調査によると、一般的知能は、加齢とともに遺伝率があがり、80%ほどに達する(誤差部分を除くともっと高くなるだろう)。また、多変量解析を行うことにより、ほとんどの認知能力に対する遺伝的効果がお互いに強く関係していることが明らかとなった。特に学力に対する遺伝的効果は一般的認知能力(知能)に対する遺伝的効果と全く重なり合うことが判明した。更に、またこうしたパーソナリティや知能などの遺伝性の「極端」として心理・行動障害が理解できるかどうかが研究されつつあり、抑鬱症、恐怖症、読書障害などが(正常人の連続的分布の)「極端」として理解できるとの証拠が出始めた。
なお、心理障害や知的障害などの遺伝率は、一般的な遺伝病のそれより高いこともわかっている。特に、自閉症は1970年代までもっぱら「育ち(て)方」に起因すると考えられていたが、現在では最も高い遺伝率を示す遺伝病とみなされている。

知能の低さを嘆く前に
誰もが遺伝的限界をもつ。そして、ふつう、この限界はサピエンス種としてのぱらつきの範囲内にある。だが、誰もが、その限界まで遺伝的能力を出し切っているかどうか、知らない。もちろん、怠惰な生活を送っていれば、明らかに遺伝的能力を眠らせているどころか、下手をすれば「不可逆的な」退行を招いているかも知れぬ:毎日、一日中、幼児やこどもがテレビや漫画にふけって怠惰な生活を送れば思考力は限りなくゼロに近づくだろう。日常の生活経験(家庭関係、友人関係、恋愛関係、仕事関係などのすべてのコミュニケーションの複雑さを観よ)は、最も基本的な知能訓練であろう。初等、中等教育では国語や算数、数学が最も有効な知能訓練であろう。だから、誰もがこの知能訓練を行えるよう国家は「落ちこぼれ」をださない責任がある。
知能の遺伝率80%という数値は驚くべき値である。この高さを説明する一つの仮説的論理を提供しよう。それは、パーソナリティの遺伝のところで述べたように、遺伝子と環境との正のフィードバックによって性格特性が強められる、という論理である。知能が生まれながらに少し高いこどもは、知的刺激を求めたり、思考する傾向が強い。つまり、知能訓練を行う傾向も少し高いわけだ。この、相乗効果によって、知能はどんどん向上していくことになる。このポジティブフィードバックを承認すると、知能の遺伝率80%というのは、遺伝子の純粋な寄与率が80%であることを意味しているのではないことに気づく。遺伝的知能の高低は生後の知能訓練の強弱をとおして現実の表現型としての知能の高低となる。つまり、遺伝的知能の高低は、その他の条件がすべて同じであるなら、知能の現実の高低に拡大されて発現する。
いずれにせよ、ひとが高い知能を望むなら、知能訓練するしかない。もちろん、望まぬのなら怠惰に生活することも自由だ。

 
人間の本性と体験
 人間の本性という言葉は、人間が生まれながらにもっている性質をあらわす。生得的形質、遺伝的形質ともいう。これに対し、生後の体験、より正確に言うと受精卵誕生後の体験によって獲得される形質を後天的形質という。人間を含む哺乳類の行動は、遺伝的形質と後天的形質の混合である。しかし、遺伝的形質に矛盾したことは一切起らないことに注意しなければならない。
 人間の遺伝的プログラムには、「自由に思考しなさい」とかかれている。つまり、喜怒哀楽(大脳辺縁系の機能)による影響を遮断して、自由に思考することを可能にする神経回路が大脳新皮質に組み込まれている(もちろん、これは発生が正常に進行した場合である)。しかし、いくら自由であるといっても、無限に自由であるわけではない。一次元や二次元の世界は想像の域を越えることはできないし、因果関係を逆転した世界は想像さえできない。
 思考が自由であるとは、こうした制限の中でなら、各人がもつ個々の知識はどのようにも組み合わせることができる、ということだ。

 
 
 

 それは、自由な思考を司る神経回路は、われわれ人間が「うまく」生活していく上で困らないような配線になるよう進化してきたからだ。
 

部族的本性:帰属意識と人間の歓び
 人間は群れ動物であり、単独生活者としては完全に無力である。人間の群れは核家族を単位にしている点に大きな特徴があるが、今は措く。
 人間にとって最も辛いことは村八分である。社会的孤立は人間にとって絶対的恐怖なのだ。

 社会的孤立に伴う絶対的恐怖を社会本能の裏の面とすれば、その表は集団的狂喜(乱舞)であろう。お祭りのドンチャン騒ぎや団体競技から戦争まで、すべてが集団的狂喜(乱舞)を与えてくれる。もちろん、知性や理性を抑制できればできるほど、この狂喜は高まり、歓びは大きい。

社会的存在感、自尊心、「人間の価値」
 意識するとしないとに関わらず、人間は日常的生活において、この中庸に属する社会的存在感を求めている。社会的存在感とは、結論的に言えば自尊心が満たされた状態、すなわち群れメンバーとしての資格を(潜在意識としてでも)実感している状態である。群れメンバーとして私は価値があるのか、ということだ。
 もちろん、クローン人間の尊厳で論じたように、人間は出生や地位や才能、財産に関わりなく全人格としては対等の価値、それ自体の価値(他者の評価を媒介としない価値)をもつ生命として処遇されなければならない。これが「人間の尊厳」や「個人の尊重」の精神であった。
 各人の社会的存在感(自尊心)を満足させるためには、最低限、各人の「人間の尊厳」が守られていなければならない。つまり、「人間の尊厳」という社会意識(社会的スローガン)は、人間が自尊心を満たして生活していくためのぎりぎりの必要条件に過ぎないのである。道具として扱われる限り、人間は自らを卑下せざるをえず、群れに参画する意欲など望むべくもない。
 「人間の尊厳」性が守られ、なお群れに何か貢献できるとき、人間は自尊心を満足させ、充実した日々を送ることができる。この貢献の内容は、当人が「貢献している」と(潜在意識としてでも)実感している限り、当人にとっては何でもよい。しかし、それが正義にもとるものであっては群れにとって(ふつう、当人が帰属しているつもりの群れより広い群れにとって)は困る。

社会の重層化と「肉体と精神の不均衡」
 肉体的成熟は、現代社会では精神的(社会的)成熟より大分先行する。それは、社会人として成長するために学ぶべきことが、社会の重層化に伴って増大したからである。
 しかし、例えば、思春期が性の目覚めであるとしても、それは同時に社会的正義への目覚めでもあり、社会的自己の目覚めでもあることが示すように、思春期は肉体的成熟と精神的成熟が乖離せずに進行するのがつい最近までの成長パターンであったろう、と思われるし、それが人間成熟の遺伝的プログラムであろうと思われる。しかし、いくら精神的に成長しても、親からの経済的独立がなければ、社会人とは言えない。この経済的独立を阻むものが産業構造の高度化である。
 少なくとも、昔の農業や狩猟採集の経済であれば、社会人になるために高校や大学で勉強する必要はない。中学教育さえ必要ない。明治政府が義務教育としたのは、農業や漁業を支える人材が欲しかったからではなく、富国強兵に役立つ人材を育てたかったからなのだ。もちろん、戦後は高度経済成長を支える人間が「期待される人間像」であった。
 つまり、産業構造の複雑化に伴い、現代の子どもの多くは社会人としての資質を得るのに昔よりずっと長い生長期間を必要とするようになってしまったのだ。これはある意味で可哀相なことだ。肉体はおとなになっているから、本人にしてみれば一人前のつもりでいる。だが、社会や学校はそのようには評価してくれない。この評価自体は正しいが、それを管理教育に転嫁するのは悪循環の構造を作るに等しい。
 このような状況で何より求められていることは、主体性の尊重、つまり責任ある自己を育てるような躾と学校教育であろうと思われる。だが管理教育が育てようとするのは理想的兵卒であり、理想的兵卒は自己の行動に責任をとれる人間とは対極にある。
 もちろん、自由主義の社会的風潮のもとでは、理想的兵卒は育つはずがない。人間は自由を求めるからだ。だから当然のこととして反乱が起きるのも無理はない。また、親の自己満足の手段としての「お勉強」も、結局のところ「理想的兵卒」を育てる試みであるが、もちろん、子どもがいつまでもそれに甘んじるはずがない。ではどうすれば良いかというととても難しいが、子どもの自主的判断を最大限に尊重する(可愛い子には旅をさせろ)ことに尽きるのではないか? ただし、「尊重する」とは全面的に任せる(放任する)ということではないし、正義にもとることは絶対に許してはならない。
 

のがものはこれであるからだ。
 
 

それ自体の価値を他者の道具であってはならないし、群れメンバーとして一人一人が対等に遇されなければならないのである。
 
 群れの中に、家族関係の序列や国家リーダーをトップとした社会的序列が形成されているため、この対等性が崩れているようにも見える。しかし、人間は、この序列に関わりなく、全人格としての等しい価値を求めているの人間の価値としては、人間は

http://www.animatedsoftware.com/family/howardsh/imprint.htm
In the course of more recent research (in my own as well as in other laboratories) it has come to be realized that the
traditional view of imprinting is incorrect. The newer research makes it clear that imprinting is neither rapid nor
irreversible; as was claimed by Lorenz and his followers. Nor for that matter is imprinting a specialized phenomenon
limited to a brief critical period early in a young bird's life, as was also claimed by the early investigators. Instead
the latest findings lead to the unexpected conclusion that imprinting occurs in many species including man and that it
entails much more plastic and forgiving mechanisms than were claimed by Lorenz. Perhaps more importantly, that work also
provides compelling evidence that the social bond that develops through imprinting entails an addictive process that is
mediated by the release of endorphins (the brain's own opiates). This surprising insight helps us to better understand a
number of otherwise puzzling issues with respect to how we deal with each other and with our children.
刷り込み
 ある対象が刷り込みによる社会的結合のターゲットとなるのは、その対象のもつ何らかの側面(例えば形とか動き)が脳内のモルフィネとして働くエンドルフィンの生産を高めることによって、愉快で気持ちよい状態を作り出す場合にかぎられる。ひとたびこのような刷り込みが生ずると、その対象は親近感を持ったものになるため、発達が進んでもずっと安らぎを与え続けることになる。しかし、これと競合するような

作用がある時である。が成立するのは、ある対象物(もちろん人間でも動物でもよいが)が刷り込みによる社会的結合の適当なターゲットになるためには、対象
We now understand that imprinting works as follows: To be an appropriate target for social bonding an object (it could, of
course, be a person or an animal) has to provide stimulation that is pleasurable and in this sense, comforting. This will
happen when some aspect of the object (for example, its shape or its texture or its motion) has the capacity to innately
stimulate the production of endorphins (the brain's own form of morphine).

When a young duckling or gosling or human baby is exposed to such an object it is immediately comforted and if the exposure
is extensive, the initially neutral features of the object gradually acquire the capacity to themselves stimulate the
production of endorphins. This happens through an as yet to be thoroughly understood learning process.

Once this learning has occurred, the object will have been rendered familiar. As a result it will continue to be comforting
when development has proceeded to the point when any unfamiliar, but otherwise appropriate, object will elicit a competing
fear reaction.

When viewed in this fashion it becomes clear that the so called critical period is merely the period in development prior
to the onset of fear of novelty (at about day three) in ducklings and goslings, and fear of strangers (at about 8 months)
in our own babies. It is also clear that for subjects that are beyond the critical period, an appropriate but unfamiliar
object must eventually become familiar provided that the subject has sufficient exposure to it. Once this happens the
object will no longer elicit a competing fear response and since the object already has the capacity to stimulate the
production of endorphins it will now serve as a potential target for social bonding.


  



快楽主義
人間(もしくは哺乳類全般)が快楽(快適)を求めるのは本性(本能)である。自然淘汰は、繁殖成功度を高める機能(メカニズム)を選択する(遺伝的プログラムとして残す)する:そのようなメカニズムを遺伝的プログラムとして備える個体が子孫を残す(その遺伝的プログラムを後代に伝える)確率が高い。

喜怒哀楽を感ずる能力(感性)は遺伝的形質であるし、感情パターンもまた遺伝的というべきである。生存・繁殖に好適な刺激をわれわれは気持ちよく感じるし、不適な刺激には不快感を感ずる。逆に言うと、求めたくなる刺激は、必ず生存・繁殖に有利な要素を含んでおり、その刺激受容によってわれわれは「気持ちよい」と感ずるのである。良好な人間関係によって人間は歓びを感ずるが、良好な人間関係は同時に社会的成功の条件でもある。また、性行為も快感と歓びを与えるが、それは同時に子孫を創ることにつながる。
 

快楽主義には純粋に個人の快楽(幸福)を求める立場も成立する。道徳的満足も快楽の一形態であるが、「欲するところにしたがいて規を超えず」という境地に立てない限り、この個人的快楽主義は成立しない。また、利己的快楽主義も成立するが、それは社会的に容認されない。特権的な人々はもちろん「容認」されているのだが。また、社会が、他の社会を従属させて特権的な利益を得るシステムがあれば、その社会は従属社会の犠牲の上で利己的快楽主義を求める事が可能となる。だが、利己性のみの社会がいずれ崩壊することは誰にも予想できる。現代の日本のようでもある。

このように、快楽主義は人間本性の一部を直接的に表現しているが、利己主義に転嫁する危険性が高い。快楽という言葉は一般的に個人的(個人の内部にとどまるもの)である。その限りにおいて道徳性が一切欠落しているからだ。これを社会的文化規範にすれば社会は一挙に崩壊する。もちろん、この個人的快楽主義の立場に立つかどうかは個人の自由である。だが、それが責任を伴わない「個人の勝手」である事は明瞭である。一方、快楽主義が全人類の快楽を求めるなら道徳的に問題は無い。だが、社会は利害の対立から構成されているから、全人類の快楽を志向した快楽主義は原理的に不可能である:利害の対立がある限り「個人抑制」は避けられないからだ。
 


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