パーソナリティが遺伝するということの最も有力な証拠の一つは今でも、ダーウィンが最初に指摘したように、そもそも人類が野性動物の家畜化に成功したという事実に求められる、とされる。だが、前節(ろ)で考察したように、パーソナリティの遺伝性は論理的に証明できる。こうして、経験事実すなわち単なる知識が、科学的真理とみなされる。
さて現在、パーソナリティは次の5つの形質によって特徴づけられるとされている。外向性、神経症的性格、良心、好感性(協調性)、率直性(開放性)。
外向性:社交的で決断力があり、口がうまい。またリーダーシップをとるのを好む。
神経症的性格 :情緒不安定で、神経質。また怒りっぽく心配性である。
良心(誠実) :計画性があり、きちんとしている。責任感があり信頼性が高い。
好感性(協調性):友好的で快活。同情心があり、暖かく親切で、気だてがよい。他人を利用したり騙したりしない。
率直性(開放性):洞察力が高く、知的好奇心が強く、独創性がある。想像力が豊かで、新しい刺激や経験に対して開放的である。
遺伝率ゼロの場合、個体間の表現型(身長や性格など)の違い(個性)はもっぱら環境因子に由来する。逆に、遺伝率1(100%)の場合は、個性の由来がもっぱら遺伝子に由来し、環境因子の寄与はゼロとなる。前述の5つの性格特性について、一卵性双生児や二卵性双生児を用いて調査された。
遺伝率が高ければ、一卵性双生児は同一家庭に育てられようと、養子に出されて別々に育てられようと似た性格を示す。二卵性双生児は、別々に生まれてきた兄弟姉妹間と遺伝的差異の割合は等しいので、二者の性格の差はふつうの兄弟姉妹の間の差と異ならない。一方、遺伝率が低く、家庭環境が100%の寄与をするとすれば、同一家庭内で育てられた一卵性双生児の類似度と同一家庭内で育てられた二卵性双生児の類似度は全く同じはずだ。また、この類似度に比べ、別々の家庭で育てられた一卵性双生児の類似度は低くなる。
こうして、大量のデータが集積され、統計的分析にかけられた結果、驚くべきことに、パーソナリティはほとんど遺伝的形質によって決まる、との合意が現在得られている
(T.J.Bouchard,Jr. Science 264:1700-1701, 1994)。5つのどの形質についても、遺伝率は42%であるのに対し、家庭環境(共有の環境因子)の寄与率は7%にすぎない。残りの半分(約20%)は非共有の環境因子による寄与、半分(約31%)は測定誤差に由来するとされている。従って、測定誤差を除いて信頼できる部分だけを計算すると(69%を1とみなすということ)、遺伝率はほぼ3分の2(約60%)であり、家庭環境の寄与率は10%、非共有の環境因子の寄与率は約30%となる。ただし、こうした量的遺伝学でいう環境因子は、すべての非遺伝性の成分、例えば非遺伝的なDNA変異(体細胞変異、遺伝子インプリンティング、DNAの不安定配列などに由来)を含んでいることを考えると、DNAの寄与率としてはもっと高くなるだろう。いずれにせよ、血縁者同士が互いによく似た性格を示す理由は、基本的には遺伝子が似ているからなのであった。
ただし、このことは性格が後天的に形成されることを否定するものではない。こどもは誕生した時点で、すでに個性的な性格を示す。乳がでないとすぐ諦める赤ん坊もいれば、それでもしゃにむに乳を吸う赤ん坊もいる。よく微笑みかける赤ん坊もいれば、愛想を示さない赤ん坊もいる。当然、親や周りの育て方はこどもに応じて変わってくる。つまり、
育てられ方を決めるのは自己の遺伝子である
こどもの性格を決める遺伝子は、まず初期の性格(表現型)を決定し、これによって育てられ方を決定する。この周囲の態度が、今度は自己に跳ね返って、自己の遺伝子に固有な性格特性を強める方向に作用する。いいかえると、遺伝子と環境との正のフィードバック作用によって性格特性が完成する。
もちろん、親や周りの人々の意向に則して、強引にこどもを育てることもできるだろうが、その寄与率は高くないし、こどもにストレスがかかることが予想される。前節(ろ)原理(ね)を想起すること。
この知見を育児に即して考えると、親の望み通りにこどもは育たない、ということだ。自分とパートナーとの偶然的な遺伝子の組み合わせ(組み換えと受精)によって、受精の瞬間にこどもの大部分の性格は決定される。こどもの本来的(遺伝的)性格に反して親の望みにあわせようとする態度は、おそらくこどもに過度なストレスを引き起こし、葛藤を生むだろう。したがってまた、自分の望むパーソナリティを持ったこどもが欲しいと思えば、そのようなパートナーを選択するのが無難であろう:ただし、自分とパートナーの性格の相性は全く別の問題である。
知能の遺伝など
なお、出生順序は、広く信じられていることに反して、パーソナリティにほとんど影響しない。また、こどもの行動の違いは、親の態度の違いに起因するものではなく、むしろ逆に親の態度の違いを導く要因である。更に、身体的魅力とパーソナリティのタイプとはほとんど無関係であること、つまり相互に独立な遺伝的形質によって決められていること、もわかっている(前掲Science)。
Plomin,R et al. (Science 264:1733-1739, 1994)の総説によると、
自尊心、社会的態度、性的指向性(sexual orientation)なども遺伝率が比較的高い。また、
学力や一般的知能、空間論理能力、言語的論理能力の遺伝率は前節のパーソナリティと同じく、40%?50%の範囲にある(誤差部分を除けば約3分の2になるだろう)。
これに対し、
記憶力や計算速度の遺伝率は20%ほどに落ちる。
更に興味深いことに、発生遺伝学的な追跡調査によると、一般的知能は、加齢とともに遺伝率があがり、80%ほどに達する(誤差部分を除くともっと高くなるだろう)。また、多変量解析を行うことにより、ほとんどの認知能力に対する遺伝的効果がお互いに強く関係していることが明らかとなった。特に学力に対する遺伝的効果は一般的認知能力(知能)に対する遺伝的効果と全く重なり合うことが判明した。更に、またこうしたパーソナリティや知能などの遺伝性の「極端」として心理・行動障害が理解できるかどうかが研究されつつあり、抑鬱症、恐怖症、読書障害などが(正常人の連続的分布の)「極端」として理解できるとの証拠が出始めた。
なお、心理障害や知的障害などの遺伝率は、一般的な遺伝病のそれより高いこともわかっている。特に、自閉症は1970年代までもっぱら「育ち(て)方」に起因すると考えられていたが、現在では最も高い遺伝率を示す遺伝病とみなされている。
知能の低さを嘆く前に
誰もが遺伝的限界をもつ。そして、ふつう、この限界はサピエンス種としてのぱらつきの範囲内にある。だが、誰もが、その限界まで遺伝的能力を出し切っているかどうか、知らない。もちろん、怠惰な生活を送っていれば、明らかに遺伝的能力を眠らせているどころか、下手をすれば「不可逆的な」退行を招いているかも知れぬ:毎日、一日中、幼児やこどもがテレビや漫画にふけって怠惰な生活を送れば思考力は限りなくゼロに近づくだろう。日常の生活経験(家庭関係、友人関係、恋愛関係、仕事関係などのすべてのコミュニケーションの複雑さを観よ)は、最も基本的な知能訓練であろう。初等、中等教育では国語や算数、数学が最も有効な知能訓練であろう。だから、誰もがこの知能訓練を行えるよう国家は「落ちこぼれ」をださない責任がある。
知能の遺伝率80%という数値は驚くべき値である。この高さを説明する一つの仮説的論理を提供しよう。それは、パーソナリティの遺伝のところで述べたように、遺伝子と環境との正のフィードバックによって性格特性が強められる、という論理である。知能が生まれながらに少し高いこどもは、知的刺激を求めたり、思考する傾向が強い。つまり、知能訓練を行う傾向も少し高いわけだ。この、相乗効果によって、知能はどんどん向上していくことになる。このポジティブフィードバックを承認すると、知能の遺伝率80%というのは、遺伝子の純粋な寄与率が80%であることを意味しているのではないことに気づく。遺伝的知能の高低は生後の知能訓練の強弱をとおして現実の表現型としての知能の高低となる。つまり、遺伝的知能の高低は、その他の条件がすべて同じであるなら、知能の現実の高低に拡大されて発現する。
いずれにせよ、ひとが高い知能を望むなら、知能訓練するしかない。もちろん、望まぬのなら怠惰に生活することも自由だ。
人間の本性と体験
人間の本性という言葉は、人間が生まれながらにもっている性質をあらわす。生得的形質、遺伝的形質ともいう。これに対し、生後の体験、より正確に言うと受精卵誕生後の体験によって獲得される形質を後天的形質という。人間を含む哺乳類の行動は、遺伝的形質と後天的形質の混合である。しかし、遺伝的形質に矛盾したことは一切起らないことに注意しなければならない。
人間の遺伝的プログラムには、「自由に思考しなさい」とかかれている。つまり、喜怒哀楽(大脳辺縁系の機能)による影響を遮断して、自由に思考することを可能にする神経回路が大脳新皮質に組み込まれている(もちろん、これは発生が正常に進行した場合である)。しかし、いくら自由であるといっても、無限に自由であるわけではない。一次元や二次元の世界は想像の域を越えることはできないし、因果関係を逆転した世界は想像さえできない。
思考が自由であるとは、こうした制限の中でなら、各人がもつ個々の知識はどのようにも組み合わせることができる、ということだ。
自由な思考
どのような種類の思考も各人にユニークな創造であるから、思考の全般を「自由な思考」と言ってよいかもしれない。
しかし、前段の「思考と創造」後半に触れた科学的思考が、人間の生理的欲望から完全に自由であるのに比べ、政治的思考、イデオロギー的思考、商人的思考、、、等は生理的欲望つまり人間的利害から自由であるとは言えない。
科学的思考においても、直観的に発想した仮説に論理的妥当性を与えたい、という欲望ははたらくだろうが、その仮説自体は生理的欲望(人間的利害)からは自由であるし、仮説を実験や観察によって検証するという手続きがはっきりと決められているから、そこに人間的利害が絡む余地はない。
だが、例えば人文系の学問になると、イデオロギー的色彩が極めて濃厚になってしまう。当人のイデオロギー的な立場に応じて、「こうありたい」という学問的結論が先にある。論争は必ずと言って良いほど平行線をたどり、立場の違いですね、というところに落ち着かざるを得ない。
政治的思考や商人的思考も人間的利害の枠内での思考という点で、自由度が落ちることは明らかだろう。
遺伝と文化(氏と育ち)
前段の「思考と創造」「自由な思考」を通じて、人間行動に関する遺伝と文化の関わりについての古くて新しい問題を考察する手がかりを提供したつもりだ。
人間が遺伝的に備えているのは、自由に思考する能力、つまり知能である。顔や姿が個性的であるように、知能にも遺伝的な個人差がある。数学的知能や言語的知能、、、と知能にも様々な特質があり、各々に遺伝的な個人差がある。しかし、現実の知能は、知能訓練(受精卵誕生後の生活体験)によって変化する。研究報告によってまちまちだが、知能の個人差の40%〜80%は遺伝的なものである、といわれている{例えばScience
6 June 1997; 276 (5318):1522(in Perspectives)}。
われわれには数や図形を処理する知能が備わっているが、例えば、哺乳類の多くが備えている匂いの世界については、人間的にしか知ることができない。オオカミが(人間的な意味での)数学的能力に格段と劣っているのと同じように、人間は嗅覚能力において格段と劣っている。オオカミが人間の思い描く数学的世界を想像すらできないのと全く同じ意味で、人間にはオオカミが思い描く匂いの世界を想像することができない。
以上、人間の知能が二つの点で遺伝的に制約されていることについて考察した。人間は、この遺伝的制約の枠内で、自由に思考することができる。その思考内容は、生後の体験によって決まる。つまり、具体的な思考が歴史社会的な(個人の境遇の)制約を受けることは至極明らかなことだ(境遇は最も広義の意味で用いている)。
自由意志と決断
「自由意志に基づく決断の自由」は、思考の自由より格段と自由度が低い。
それは、決断が人間利害に直接関係するからだ。どのような要因によってどのような喜怒哀楽が誘発されるかのパターンは、遺伝的に決定されている。肉体的快楽と苦痛は特にそうである。精神的快楽と苦痛においては、当人の価値観に応じて個性的な反応パターンが生まれるが、この価値観に依存しない部分においては基本的に個人差はない。例えば、誉められて喜ばない人間はいないし、貶されて怒るか打ちひしがれるかしない人間はいない。
決断の自由度は価値観の自由度に依存する、と言ってもよい。では、価値観はどの程度(遺伝的に)自由なのか。人間にとって最も基本的な価値観は、善悪の基準をどこにおくかの態度である。悪いことをしてよい、と思う人間は一人もいないのだ。そして、とても破廉恥に見える人でさえ、恥や罪悪感を抱いている。鉄面皮の人は、余程の訓練をして(意図的だかどうかは別にしても)赤面するような状況でも表情一つ変えないことに成功しているのだろう。
三つ子の魂百まで、という。われわれは、どのような言語でも操れる能力を備えて誕生する。しかし、日本語環境のもとで乳幼児を過ごせば、日本語が母国語となり、英語や中国語は外国語でしかない。外国語にいくら堪能な人でも母国語のようには自在に操れない。もちろん、オオカミに育てられれば、人間言語を操れるようにはならない。つまり、母国語を決めるのは生後の体験であり、しかもその体験はある臨界期(恐らく三歳ぐらい)までに行われていなくてはならない。これは刷り込み(インプリンティング)と呼ばれる現象である。つまり、人間は言語の一般的能力(遺伝的な個人差がある)と母国語の刷り込みの二つを遺伝的プログラムとして備えているわけだ。
全く同じことが、価値観についても言える。善悪の判断に従う性質は人間の本性だ。そして、その性質が強いか弱いかということもある程度、遺伝的な個人差があるものと思われる(パーソナリティの個人差のうち遺伝的な部分は、知能と同じように40〜60%とされる:関連論文へ 1または2)だが、善悪の基準をどこにおくかは、母国語を日本語にするか英語にするかということと同じように、刷り込みにまかされていると思われる。もちろん、成長とともに母国語処理能力がどんどん成長し、個人特有のボキャブラリーを身につけるように、善悪の判断能力も成長に連れて高まっていくし、各人各々に個性的な価値観を身につけるようになる。
三つ子の魂百までではあるが、価値観についてはもう一つクリティカルな時期があるように思われる。それが思春期だ。第二次性徴の発現とともに、性に目覚め、社会的自己を確認するからだ。
をつくった。だが、匂いの織り成す時空パターンを処理する能力は極めて低いから、それに対応する〜学をつくることはできない。もちろん、匂いや嗅覚そのものを研究することはできる。自体を的知能覚を単なる感覚として扱っているが、だから匂いが織り成す時空パターン
新しい知識を発見することが自然科学をはじめとする学問の基本的機能である。
の中でも同じ世代同じ生息圏の人々の間でも。どのような知識を得るか、ということは時代により社会により個々の知識の組み合わせの時間的パターンは、各人に固有で唯一のものである。つまり、各人の思考は、一つの創造である。そして、この組み合わせのパターンが奇異であったり珍しかったりすると、それは独創的な思考と呼ばれるのである。
それは、自由な思考を司る神経回路は、われわれ人間が「うまく」生活していく上で困らないような配線になるよう進化してきたからだ。
部族的本性:帰属意識と人間の歓び
人間は群れ動物であり、単独生活者としては完全に無力である。人間の群れは核家族を単位にしている点に大きな特徴があるが、今は措く。
人間にとって最も辛いことは村八分である。社会的孤立は人間にとって絶対的恐怖なのだ。
社会的存在感、自尊心、「人間の価値」
意識するとしないとに関わらず、人間は日常的生活において、この中庸に属する社会的存在感を求めている。社会的存在感とは、結論的に言えば自尊心が満たされた状態、すなわち群れメンバーとしての資格を(潜在意識としてでも)実感している状態である。群れメンバーとして私は価値があるのか、ということだ。
もちろん、クローン人間の尊厳で論じたように、人間は出生や地位や才能、財産に関わりなく全人格としては対等の価値、それ自体の価値(他者の評価を媒介としない価値)をもつ生命として処遇されなければならない。これが「人間の尊厳」や「個人の尊重」の精神であった。
各人の社会的存在感(自尊心)を満足させるためには、最低限、各人の「人間の尊厳」が守られていなければならない。つまり、「人間の尊厳」という社会意識(社会的スローガン)は、人間が自尊心を満たして生活していくためのぎりぎりの必要条件に過ぎないのである。道具として扱われる限り、人間は自らを卑下せざるをえず、群れに参画する意欲など望むべくもない。
「人間の尊厳」性が守られ、なお群れに何か貢献できるとき、人間は自尊心を満足させ、充実した日々を送ることができる。この貢献の内容は、当人が「貢献している」と(潜在意識としてでも)実感している限り、当人にとっては何でもよい。しかし、それが正義にもとるものであっては群れにとって(ふつう、当人が帰属しているつもりの群れより広い群れにとって)は困る。
のがものはこれであるからだ。
それ自体の価値を他者の道具であってはならないし、群れメンバーとして一人一人が対等に遇されなければならないのである。
群れの中に、家族関係の序列や国家リーダーをトップとした社会的序列が形成されているため、この対等性が崩れているようにも見える。しかし、人間は、この序列に関わりなく、全人格としての等しい価値を求めているの人間の価値としては、人間は
作用がある時である。が成立するのは、ある対象物(もちろん人間でも動物でもよいが)が刷り込みによる社会的結合の適当なターゲットになるためには、対象
We now understand that imprinting works as follows:
To be an appropriate target for social bonding an object (it could, of
course, be a person or an animal) has to provide
stimulation that is pleasurable and in this sense, comforting. This will
happen when some aspect of the object (for example,
its shape or its texture or its motion) has the capacity to innately
stimulate the production of endorphins (the
brain's own form of morphine).
When a young duckling or gosling or human baby
is exposed to such an object it is immediately comforted and if the exposure
is extensive, the initially neutral features
of the object gradually acquire the capacity to themselves stimulate the
production of endorphins. This happens through
an as yet to be thoroughly understood learning process.
Once this learning has occurred, the object will
have been rendered familiar. As a result it will continue to be comforting
when development has proceeded to the point
when any unfamiliar, but otherwise appropriate, object will elicit a competing
fear reaction.
When viewed in this fashion it becomes clear
that the so called critical period is merely the period in development
prior
to the onset of fear of novelty (at about day
three) in ducklings and goslings, and fear of strangers (at about 8 months)
in our own babies. It is also clear that for
subjects that are beyond the critical period, an appropriate but unfamiliar
object must eventually become familiar provided
that the subject has sufficient exposure to it. Once this happens the
object will no longer elicit a competing fear
response and since the object already has the capacity to stimulate the
production of endorphins it will now serve as
a potential target for social bonding.
喜怒哀楽を感ずる能力(感性)は遺伝的形質であるし、感情パターンもまた遺伝的というべきである。生存・繁殖に好適な刺激をわれわれは気持ちよく感じるし、不適な刺激には不快感を感ずる。逆に言うと、求めたくなる刺激は、必ず生存・繁殖に有利な要素を含んでおり、その刺激受容によってわれわれは「気持ちよい」と感ずるのである。良好な人間関係によって人間は歓びを感ずるが、良好な人間関係は同時に社会的成功の条件でもある。また、性行為も快感と歓びを与えるが、それは同時に子孫を創ることにつながる。
前者の場合には当人の直接的目的(意図や動機)は「良好な人間関係」である。「良好な人間関係」を求めるための必要条件の一つは、その関係が「気持ちよい」ということである。それが不快なら求めることはできないのだ。
二千億年以上の霊長類の進化と人類の進化を通じて、人間の祖先はずっと群れ動物として生活してきた。したがって、群れの内部で良好な関係を築く事は生存と繁殖にとってエッセンシャルの事であったはずである。
つまり、「良好な人間関係」を快楽として感ずる事の進化的要因(究極要因)は、群れ生活の基本が協力行動という点にある。だが、直接的動機(至近要因)は快楽である。
全く同じように、後者の場合「良好な人間関係」を求める直接の動機は「社会的成功」またはその背後にある「野心」や「名誉欲」「物欲」「金銭欲」、、、人によって様々だろう。どの動機にせよ、どの進化的要因(究極要因)は、群れにおける社会的順位が高いほうが、生存と繁殖に有利だったという群れの順位制・リーダー制にある。
→生命サイクルと自然淘汰
このように、快楽主義は人間本性の一部を直接的に表現しているが、利己主義に転嫁する危険性が高い。快楽という言葉は一般的に個人的(個人の内部にとどまるもの)である。その限りにおいて道徳性が一切欠落しているからだ。これを社会的文化規範にすれば社会は一挙に崩壊する。もちろん、この個人的快楽主義の立場に立つかどうかは個人の自由である。だが、それが責任を伴わない「個人の勝手」である事は明瞭である。一方、快楽主義が全人類の快楽を求めるなら道徳的に問題は無い。だが、社会は利害の対立から構成されているから、全人類の快楽を志向した快楽主義は原理的に不可能である:利害の対立がある限り「個人抑制」は避けられないからだ。