自然保護の理念


あなた方は私に大地を耕せと云う。ナイフをとって母の胸を引き裂けと云うのか。
あなた方は私に草を刈って干し草をつくり、それを売って白人のように金持ちになれと云う。
しかし、母の髪を切り取るようなことができようか


スモハラ(インディアン酋長)原子論者ボイルに反論して
(ヴァンダナ・シヴァ「生きる歓び」より)


  • 自然保護は本当に必要でしょうか?
  • 自然保護は何のためのものでしょうか?また誰のためのものなのでしょうか?

    環境問題におけるこの最も本源的な問題については様々な考え方があります。このページでは、私の生命論と幸福論に立脚して、この問題について考えてみたいと思います。

    人間と生命活動


    環境に及ぼす作用

    @環境問題の三つの次元

  • 環境問題には少なくと三つの異なる側面が区別されます。

    • ダイオキシンやフロンなどの問題は、人間による創造物(化学物質)のひきおこす環境汚染(化学汚染)です。

    • もう一つは、化石燃料に依存した近現代社会が直面するエネルギー問題です。食糧問題も同じ次元の問題でしょう。

    • 三つ目は、緑の破壊、稀少種の絶滅、、、など、生物的自然の破壊に伴う問題です。

  • こうした側面は現実には複合的に現れていますが、それらの側面を理解するためには個別に検討することが必要です。しかし、環境問題を人間社会が解決すべき問題とすることの理由は、基本的に同一であろうと思われます。


    A生命活動による汚染、人間活動による汚染

  • 人間活動だけが環境を破壊するのではありません。個々の生命は、約40億年前に現生に伝わる最初の生命として誕生して以来、環境を汚染し続けてきました。

  • しかし、地球生命圏(地球生態系)としては、それで何の問題も生じてこなかったのです。全体として、生命の種類は増大し(種の多様化)、生命の体制も複雑化するものが現れ(原核単細胞生物⇒⇒⇒真核単細胞生物⇒⇒⇒真核多細胞生物)、生命の個数や生息圏(生物分布)も増大してきました。

  • では、どういう意味で、生命活動は環境破壊なのでしょうか。原核単細胞生物のシアノバクテリア(藍藻)を例に考えてみましょう。
    個人の自由と自然保護


    西洋技術文明による地球征服

    「個人の尊重」つまりヒューマニズムの精神は、個人の自由意志が最大限に尊重されなければならないことを主張する。

    しかし、民族または国家内部の「個人の尊重」が重視される反面において、他民族、他国家の「個人の軽視」が行われてきたことは、西洋技術文明の地球征服、すなわち「国際化」の歴史が証明している。 現在の地球環境問題は、西洋技術文明の単なる国際化ではなく、アメリカ土着民をはじめとする数え切れない人々に対する迫害・侵略の産物といってよい。

      わが日本も、明治以降、国家を挙げて文明「開化」して西洋技術文明の仲間入りを果たし、この迫害・侵略の歴史に加担してきた。民主国家となった戦後日本も、その飽くなき経済追求によって、公害を垂れ流し、熱帯雨林を開発するなどして、地球文明の西洋技術的一元化を推進した。

    自由と責任

    個人の自由は、当人が責任を取る限りにおいて保証される。自由と責任の抱き合わせはヒューマニズムの基本前提としてよく知られている。しかし、現実に行われてきたことは、法を守る限りにおいて何をやっても自由だ、ということだ。だが、国内法にしても国際法にしても、時の権力に都合よくできているから、自由と抱き合わせにされた責任が「法を守る責任」なら、被抑圧者の幸福を侵害する自由はいくらでもある(すべての法がそうであるわけではないが)。

    だが、これは明らかに道徳的な「個人の自由と責任」のレベルからすれば次元が低い。道徳的には、

    個人の自由は他者の幸福または人権を侵害しない限りにおいて保証されなければならない。

    つまり、他者の幸福を守るか、少なくとも侵害しないという点が、個人の自由に伴う責任なのである。人間が部族単位で生活している限り、「他者の幸福」と各自の行動の関係はとてもはっきりしている。しかし、社会が重層化し、ましてや国際化すると、この関係はとても不明瞭になってしまう。行動の及ぼす波及効果が間接的になるからだ。

      マイカー運転に伴う人権侵害
      例えば、マイカーの運転は、自動車産業と土木業者の人々の経済利益を支えている。互いに利益(または幸福)を与え合っている関係にある。しかし、マイカーを運転しないからといって、こうした人々の幸福や人権を侵害していることにはならない。これに対し、マイカーの運転によって幸福を侵害される人々はたくさんいる。何よりも、子どもの遊び場を全国的に奪う。
        もちろん、今の子供たちにとっては、それが所与の条件(境遇)だし、外で遊ぶ代わりに家の中でテレビゲームなどして遊んでいるから、「不幸」と感じているわけではない。だが、集団的遊びと自然との交遊を抑制するということは、子どもの健全な成長を阻害する大きな要因を与えていること、つまり子どもの成長する権利を奪っていることに等しい。そして、そのつけが、いずれ(というか、もう既にというか)社会に跳ね返ってくるわけだから、それは社会的不幸をもたらしている、といってよい。
        子どもを守る
      マイカーによって殺傷される人々もいる。殺傷されないまでも、歩行者とその家族はその危険を常に心配していなくてはならない。本当の自然愛好家にとっても、自然破壊の先兵であるマイカーは不幸の張本人であろう。また、排気ガスは空気を汚染し、不特定多数の人々の健康を害する(これは自業自得とも言えるが、マイカーを運転しない人々にとってははた迷惑のことだ)。

      全く同じように、空港や新幹線、或いは産廃処理施設を建設しようとする。立ち退きを要求されたり、騒音その他の公害に脅かされることになる。したがって、それに反対することは正当な主張である。推進側は建設によって経済利益を得ることができるが、建設を阻止されても幸福や人権の侵害は受けない。

    人間関係の対立項は、利益対利益、人権対人権、利益対人権、の三つにとりあえず分けることができる。このうち、利益対利益や人権対人権については妥協点を探ることができるし、探らなければならない。しかし、利益対人権の場合には妥協の余地がない。明らかに人権を優先させるべきである。これが、「個人の自由と責任」の精神である。決して、「公共」の利益のために少数者の人権を侵害してはならない


    自然保護の目的(理念)

    自然破壊(環境破壊)は、以上の通覧から明らかなように、まず何よりも少数者・被抑圧者の人権侵害を通じて行われてきた。したがって、

    自然保護はまず何よりも人権擁護運動でなければならない

    言い換えると、人権擁護の視点を欠く自然保護運動は正義にもとる、ということだ。

    マイカーと子どもの遊び場の問題から明らかなように、自然破壊はまた居住環境の破壊である。子どもに限らず、人間は日常生活において「人間にやさしい自然」「人間的自然」「美しい自然」を求める。農業破壊と連動して行われた経済の高度成長政策と貧困な住宅政策が、伝統的で人間にやさしい自然を破壊した。居住環境(自然)の悪化は、人心荒廃に拍車をかける。逆に言うと、美しい自然は健全な人間生活に必要不可欠なのである。したがって、

    自然保護は、健全な人間社会を築くためにこそ必要な課題である。


      自然保護とは何か

      人間は、他のすべての生物と同じように、自然を利用することを通じてのみ生きることができる。自然の利用とは、高い自由エネルギーを取り入れて低い自由エネルギーを吐き出す過程、或いは、己の必要なものだけ同化して、不要なものを排出する過程である。つまり、この意味ですべての生物が環境破壊者なのである。生物40億年の歴史を通じて、生物によるこの環境改変は地殻変動や気候変動などとともに、現存生物にとっての好適な環境を作り出してきた。この環境変動に耐えられなかったものたちに取って代わったのである。

      人間による環境破壊が、他の生物によるものと大きく異なるのは、それが技術的行為を通じて行われてきた点にある。狩猟採集、農耕、工業、どの生業形態においても技術を媒介とした行為であることは共通している。技術は累積的であり、また、その性能は「進歩的」(一技術当たりのエネルギー変換量が増すこと)であるから、人類の歴史とともに環境破壊力が増大してきた。人類の一部が狩猟採集経済を離れざるを得なかったのも、過剰狩猟、過剰採集による資源の枯渇であったことは十分に想像可能なことである。その中で、近隣部族や祖先部族の悲劇を教訓としたものたちが、過剰狩猟や過剰採集を戒める神話などを守ることによって、狩猟採集生活を続けてきたものと思われる。

      自然(森羅万象)は、人間にとって不可欠な経済資源である。自然はまた、人間の生理的健康を大きく左右する環境でもある。現在、地球的規模で問題にされている環境問題は、この二つのバランスを国家間の対立を妥協させながらとっていこうとするものである。
      自然が人間の生理的健康を大きく左右することは理解しやすい。が、これさえ、企業利益のために隠蔽工作が重ねられてきている。同時に、自然が人間の精神的健康を大きく左右することも重要な問題とされなければならない。

      経済的富に力点をおくのか、心身の健康に力点をおくのか。国内的には、これが対立のポイントになる。人権擁護という正義にたてば、当然、「心身の健康」派が道徳的にも、論理的にも勝つ。経済に対する国民的規制は、対外的にも、後続世代に対しても、人権擁護の責任を果たすことにつながる。経済に対する国民的規制は、一つは政府や企業活動に対する規制である。だが、もっと重要なことは、それが、国民自身の消費生活の見直しと連動して行われなければならない、という点だ。なぜなら、それを通じてのみ、

      健康な人間を生かし育む自然を創るという精神

      そのもの(文化遺産、文化的伝統)をこどもたちに引き継いでいくことができるからだ。


    利己的行動を優先させる社会的要因

    国民が、全体的には、利己的行動を優先させているのが現状であろう。個人的に幸福を追求するのは当然のことであるが、それが人権擁護という正義を展望しているものである、とはとても言えないのである。

    その社会的要因は複雑であるが、第一の要因を挙げるとすれば、それは日本国家(政府)が個人を守らない、という単純明白な事実であろう。元来、正義とは、人間の属する小さな群れ(部族)の平和と幸福を守るためのものだ。人間は、その群れで生活する中で、部族を守る正義を教えられる。正義を守るこころ自体は人間の本性としてあるが、何が正義かは部族全体が教えるのである。正義を守る個人は部族のメンバーとして認められ、守られる。

      だが、第一に、現代社会は重層的な群れである。一つの群れにとっての正義は、他の群れにとっての正義とは異なる場合がある。もちろん、人間として共通の正義はあるのだが。例えば、企業戦士にとっては、企業の経済利益を守ることが彼にとっての正義になるが、このことによって、例えば公害垂れ流し等を通じて、住民や海外の人々の人権を侵しても、恥じる暇はない。
      第二に、日本国家が個人を守らないということは、個人は国家(政府)あるいはそれを支える日本人全体に対して何の責任も感じない、ということである。自分のことは、すべて自分が守らなければならないからだ。
      第三に、まして、問題が世界全体となれば、そこまで気を遣うほどの精神的余裕も情報も与えられていないのである。
    現代に生きる私たちが正義を守る、ということはとても難しい問題となっている。国家が個人を守らないことと、個人が利己的行動に走ることとは相互増幅的に高めあっている。これを断ち切るのは、国家が個人を守るような政策を求めていく運動であろうと思われる。国家が個人を守るようになれば、個人も国家、国民全体に対する正義に目覚めてくるのではなかろうか。



    人間中心主義批判の誤り

    例えば環境倫理学などは、環境破壊の元凶を人間中心主義とみなし、生命平等主義を唱える。だが、生命平等主義は、人間が生物学の法則に従う生物なのだ、という点を全く無視している。

      人間は他の動物・植物を食わなければ生きていけない。菜食主義者が動物を食わないのは、動物が植物より人間に近いからだろう。一寸の虫にも五分の魂ではあるが、だから食わないとする主張が人間本位であることに変わりはない。病原菌や病原ウィルスに抵抗するのは人間の生理であり、その放棄(をすることは全く生理的に不可能であるが、医療や衛生を放棄することは社会的合意があれば可能である)は人間の死を意味する。生命平等という価値観を徹底させれば、人間は病気や餓えによってたちまち死ぬ。
    人間中心主義批判のより重大な誤りは、環境問題における人間関係の対立を無視ないしは軽視している点にある。既に見たように、環境破壊の歴史は、西洋技術文明による地球の一元化であり、少数者・被抑圧民族・国家に対する人権侵害の歴史なのである。西洋技術による経済利益追求こそが環境破壊の元凶なのであって、その経済利益の恩恵に浴する人々にとっての「人間中心」ではあるが、それによって迫害されてきた多数の人々がいるのであるから、これを「人間中心主義」と呼ぶことはできない。

    社会建設と自然保護

    人間にとっては、健全な社会建設という課題が第一原理であり、自然保護は健全な社会建設の重要で不可欠な一環として機能する。既述のように、人間的自然との交遊は一つの重要な人間欲求であるからだ。

    今の世の中が健全であると思う人は一人もいないだろう。モラル(良心)の全般的低下が今の世の中の大きな特徴の一つだ。

    良心は、正義を守るために利己的欲望を抑制するこころ(力)であり、理性の一部である。
    理性は、感情を抑制して、己の価値観や、社会的規制に随うこころ(力)、つまり我慢する力である。

    キレルとは、理性による抑制力が落ち、欲求感情が暴走することである。
    少年犯罪の多発が示唆するように、今の世の中の危機的状況は、良心のみならず理性全般の抑制力が低下しているようにみえることである。

    モノが溢れるようになって生活は便利になったようにも見える。だが、決して暮らし全般が楽になったわけではない。痛勤地獄、企業戦士、ウサギ小屋、過労死、、、などの言葉が示す。

    人間関係を「人間対モノ」関係で代償する。親が、子どもの欲しいものを(しばしば、欲しくないものまで気を利かして)たくさん買ってあげることによって、子どもの抑制力は低下する。

      このような親子関係が生じた主な原因を探ってみる。
      (1)親が忙しくなった:父親不在、夫婦共働き
      (2)モノをもつことが「幸せ」であるとの錯覚:モノは子どもにとっては所詮おもちゃに過ぎない。子どもは親の愛情を求めているのであって、モノはその代わりにはなり得ない。
      (3)居住環境における環境破壊、地域共同体の崩壊のために、屋内で遊ぶ割合が増えた。
      (4)親子関係の友人化(縦の関係から横の関係への変化):子どもの要求に負けるということ。

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