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あなた方は私に大地を耕せと云う。ナイフをとって母の胸を引き裂けと云うのか。 あなた方は私に草を刈って干し草をつくり、それを売って白人のように金持ちになれと云う。 しかし、母の髪を切り取るようなことができようか スモハラ(インディアン酋長)原子論者ボイルに反論して (ヴァンダナ・シヴァ「生きる歓び」より) 環境問題におけるこの最も本源的な問題については様々な考え方があります。このページでは、私の生命論と幸福論に立脚して、この問題について考えてみたいと思います。
@環境問題の三つの次元
「個人の尊重」つまりヒューマニズムの精神は、個人の自由意志が最大限に尊重されなければならないことを主張する。
しかし、民族または国家内部の「個人の尊重」が重視される反面において、他民族、他国家の「個人の軽視」が行われてきたことは、西洋技術文明の地球征服、すなわち「国際化」の歴史が証明している。
現在の地球環境問題は、西洋技術文明の単なる国際化ではなく、アメリカ土着民をはじめとする数え切れない人々に対する迫害・侵略の産物といってよい。
個人の自由は、当人が責任を取る限りにおいて保証される。自由と責任の抱き合わせはヒューマニズムの基本前提としてよく知られている。しかし、現実に行われてきたことは、法を守る限りにおいて何をやっても自由だ、ということだ。だが、国内法にしても国際法にしても、時の権力に都合よくできているから、自由と抱き合わせにされた責任が「法を守る責任」なら、被抑圧者の幸福を侵害する自由はいくらでもある(すべての法がそうであるわけではないが)。
だが、これは明らかに道徳的な「個人の自由と責任」のレベルからすれば次元が低い。道徳的には、
つまり、他者の幸福を守るか、少なくとも侵害しないという点が、個人の自由に伴う責任なのである。人間が部族単位で生活している限り、「他者の幸福」と各自の行動の関係はとてもはっきりしている。しかし、社会が重層化し、ましてや国際化すると、この関係はとても不明瞭になってしまう。行動の及ぼす波及効果が間接的になるからだ。
全く同じように、空港や新幹線、或いは産廃処理施設を建設しようとする。立ち退きを要求されたり、騒音その他の公害に脅かされることになる。したがって、それに反対することは正当な主張である。推進側は建設によって経済利益を得ることができるが、建設を阻止されても幸福や人権の侵害は受けない。
自然破壊(環境破壊)は、以上の通覧から明らかなように、まず何よりも少数者・被抑圧者の人権侵害を通じて行われてきた。したがって、
言い換えると、人権擁護の視点を欠く自然保護運動は正義にもとる、ということだ。
マイカーと子どもの遊び場の問題から明らかなように、自然破壊はまた居住環境の破壊である。子どもに限らず、人間は日常生活において「人間にやさしい自然」「人間的自然」「美しい自然」を求める。農業破壊と連動して行われた経済の高度成長政策と貧困な住宅政策が、伝統的で人間にやさしい自然を破壊した。居住環境(自然)の悪化は、人心荒廃に拍車をかける。逆に言うと、美しい自然は健全な人間生活に必要不可欠なのである。したがって、
人間は、他のすべての生物と同じように、自然を利用することを通じてのみ生きることができる。自然の利用とは、高い自由エネルギーを取り入れて低い自由エネルギーを吐き出す過程、或いは、己の必要なものだけ同化して、不要なものを排出する過程である。つまり、この意味ですべての生物が環境破壊者なのである。生物40億年の歴史を通じて、生物によるこの環境改変は地殻変動や気候変動などとともに、現存生物にとっての好適な環境を作り出してきた。この環境変動に耐えられなかったものたちに取って代わったのである。
人間による環境破壊が、他の生物によるものと大きく異なるのは、それが技術的行為を通じて行われてきた点にある。狩猟採集、農耕、工業、どの生業形態においても技術を媒介とした行為であることは共通している。技術は累積的であり、また、その性能は「進歩的」(一技術当たりのエネルギー変換量が増すこと)であるから、人類の歴史とともに環境破壊力が増大してきた。人類の一部が狩猟採集経済を離れざるを得なかったのも、過剰狩猟、過剰採集による資源の枯渇であったことは十分に想像可能なことである。その中で、近隣部族や祖先部族の悲劇を教訓としたものたちが、過剰狩猟や過剰採集を戒める神話などを守ることによって、狩猟採集生活を続けてきたものと思われる。
自然(森羅万象)は、人間にとって不可欠な経済資源である。自然はまた、人間の生理的健康を大きく左右する環境でもある。現在、地球的規模で問題にされている環境問題は、この二つのバランスを国家間の対立を妥協させながらとっていこうとするものである。
経済的富に力点をおくのか、心身の健康に力点をおくのか。国内的には、これが対立のポイントになる。人権擁護という正義にたてば、当然、「心身の健康」派が道徳的にも、論理的にも勝つ。経済に対する国民的規制は、対外的にも、後続世代に対しても、人権擁護の責任を果たすことにつながる。経済に対する国民的規制は、一つは政府や企業活動に対する規制である。だが、もっと重要なことは、それが、国民自身の消費生活の見直しと連動して行われなければならない、という点だ。なぜなら、それを通じてのみ、 そのもの(文化遺産、文化的伝統)をこどもたちに引き継いでいくことができるからだ。
国民が、全体的には、利己的行動を優先させているのが現状であろう。個人的に幸福を追求するのは当然のことであるが、それが人権擁護という正義を展望しているものである、とはとても言えないのである。
その社会的要因は複雑であるが、第一の要因を挙げるとすれば、それは日本国家(政府)が個人を守らない、という単純明白な事実であろう。元来、正義とは、人間の属する小さな群れ(部族)の平和と幸福を守るためのものだ。人間は、その群れで生活する中で、部族を守る正義を教えられる。正義を守るこころ自体は人間の本性としてあるが、何が正義かは部族全体が教えるのである。正義を守る個人は部族のメンバーとして認められ、守られる。
例えば環境倫理学などは、環境破壊の元凶を人間中心主義とみなし、生命平等主義を唱える。だが、生命平等主義は、人間が生物学の法則に従う生物なのだ、という点を全く無視している。
人間にとっては、健全な社会建設という課題が第一原理であり、自然保護は健全な社会建設の重要で不可欠な一環として機能する。既述のように、人間的自然との交遊は一つの重要な人間欲求であるからだ。
今の世の中が健全であると思う人は一人もいないだろう。モラル(良心)の全般的低下が今の世の中の大きな特徴の一つだ。
良心は、正義を守るために利己的欲望を抑制するこころ(力)であり、理性の一部である。
キレルとは、理性による抑制力が落ち、欲求感情が暴走することである。
モノが溢れるようになって生活は便利になったようにも見える。だが、決して暮らし全般が楽になったわけではない。痛勤地獄、企業戦士、ウサギ小屋、過労死、、、などの言葉が示す。
人間関係を「人間対モノ」関係で代償する。親が、子どもの欲しいものを(しばしば、欲しくないものまで気を利かして)たくさん買ってあげることによって、子どもの抑制力は低下する。
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