今の世の中はとんでもないところまで来てしまっています。それは、いじめや少年犯罪の低年齢化と増加に象徴的に現れているのです。
社会生活を営むためには、
が、暗黙のうちに前提とされているのでなければなりません。それを否定することは、次代の社会に対する責任を放棄することそのものであるからです。それは、結局のところ、社会の自滅を容認する態度であるわけです。
より良い社会を引き継ぐための最低限の要件は心身ともに健全な子どもを育てることです。私たちの祖先が、小さな群れ、部族を単位に生活していた500万年という長い間、これはとても簡単なことでした。そこには、親類縁者をはじめとしてすべて顔見知りのものたちが、共同してこどもを育て群れを引き継いできたからです。
私が生まれた40年も前ですら、子どもを育てることは今とは比べようもないくらいに簡単でありました。親の心配は、食事と病気、それに人攫い(ひとさらい)くらいのものだったのではないでしょうか。
モノが溢れるようになって生活は便利になったようにも見える。だが、決して暮らし全般が楽になったわけではない。痛勤地獄、企業戦士、ウサギ小屋、過労死、、、などの言葉が示す。
人間関係を「人間対モノ」関係で代償する。親が、子どもの欲しいものを(しばしば、欲しくないものまで気を利かして)たくさん買ってあげることによって、子どもの抑制力は低下する。
このような親子関係が生じた主な原因を探ってみる。
(1)親が忙しくなった:父親不在、夫婦共働き
(2)モノをもつことが「幸せ」であるとの錯覚:モノは子どもにとっては所詮おもちゃに過ぎない。
→遊び場を奪うマイカー運転の人権侵害
地域の人々と自然(環境)が、こどもを守り育てる時代がかつてはあったのです。それが今、ほとんど崩壊してしまいました。この崩壊そのものが、親や小中学校の教師の責任をかつてないほどに重くしてしまったのですが、そればかりではありません。
人間を愛し(守り)、正義を愛す(守る)こころは、直接的人間関係を通じてのみ育っていくものです。この直接的人間関係が希薄になることと呼応して、この関係自体が歪めらてきました。つまり、希薄化と歪んだ関係は相互増幅的に高めあう性質を持ちます。
しかも、更に悪いことには、人間を育てる(子どもを守る)というこの最も大切な時期(誕生から思春期まで)に、世を挙げて受験のための偏差値というたった一つの枠組みにこどもを封じ込めてきたのです(全般的風潮をみれば、ということ。念のため。)。こどもの溢れるエネルギーが、この封じ込めによって満足させられるはずはありません。その不満と爆発を抑えるために、管理教育が必要になったのです。約20年ほど前のことからでしょうか。愛知と千葉から始まりました。
この時期に養わなければならないことは、考える力と体力を除けば、「人間を愛し(守り)、正義を愛する(守る)」こころです。偏差値教育と管理教育がこれに真っ向から対立することは明白です。
このような事態になってしまったのは、戦後の高度経済成長に対する、国民の無定見な信仰にあったといえるでしょう。当時は、地域と自然は健全でした。しかし、人間とは愚かなものなのです。健康でいる間は、その有り難味を理解し、感謝できないのです。こうして、「人間を愛し(守り)、正義を愛する(守る)」こころはエッセンシャルですが、それだけでは健全な社会を築くことはできないことが明らかになります。
人間の幸福とは何か、それはどのようにして得られるものなのか、という基本をまじめに考える態度が、一人一人の国民に求められているのです。小中学校の教育は、人間のこの基本テーマを考える素材と機会を提供するものでなければなりません。
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