人間は高等か
動物は、愛と同情のほかにも社会本能と結びついた性質、人間でなら道徳と呼ばれる性質を表す
:犬が良心によく似た何かをもっているとする点で私はアガシーの意見に賛成である。
犬は何らかの自己規制の力をもっているのだが、それが恐怖だけから来るようには見えないのである。
ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰) 第二版 1871より
人間は高等である、という幻想が蔓延っています。例えば、「高い」知性や道徳性、或いは器用さをもって、人間は他の動物や植物よりも優秀である、と考えるのが一般的です。
これは、西洋ではアリストテレスによる「自然の階梯」理論に端的に表れています。そこでは、無機的生命、植物的生命、動物的生命、人間という序列を想定しています。これは中世キリスト教の狭義に取り入れられ、神による創造として理解されました。ラマルク進化論は、この序列に沿って高等化していく力を生物に内在させている点で、合理的でありません(神懸かり的です)。
日本でも、犬畜生とか猿知恵という言葉が示すように、他の動物を蔑視する伝統(いつの頃からなのだろうか?)があります。
(1)比較の基準 高等下等の区別をつけることに限らず、一般に比較するためにはその比較基準を必要とします。高い知性(実は単に人間的知性)とか道徳性とか器用さ、或いは生態系の頂点に立っているということとかが、人間を高等であるとする際の基準とされます。しかし、ではなぜそれが高等であることの基準とされるのでしょうか? 妥当な唯一の理由は、そうした特徴が人間的特性だからです。つまり、人間的基準をもって生物どうしを比較しているわけですから、人間に似ているものほど高等であり優秀であるという結論が出るのは当たり前のことなのです。言い換えれば、人間は高等であるとか、人間は優秀であるとかいう言明は、トートロジーに陥っているのです:人間は人間だ、といっていることに等しいということです。更に言い換えると、「高等である」という言葉が指している事柄は「人間にどれだけ近いか」という事実なのです。
人間中心に物事を見るのは人間としてやむを得ない、という側面もあります(コペルニクス転回)。生物学関連分野では今でもこの側面が根強く残っています。しかし、チンパンジーはどれだけ賢いか?という設問は、どれだけ人間に似た知性をもっているか、という設問に置き換えなければなりません。もちろん、逆に、人間はどれだけチンパンジーに似た知性をもっているか(チンパンジー的知性に照らした場合)人間はどれだけ賢いか)?と発想しても良いわけです。
人間には分かることでもチンパンジーや蜜蜂には分からないことがあるように、チンパンジーや蜜蜂には分かることでも人間には分からないことがあるはずです。人間が、他の生物と違うところは、それを知りたがることです、多分。
(2)生物史的基準 人間にどれだけ近いか、ということも生物どうしを比較するときの基準の一つには違いありませんし、人間にとってはそれも知りたい情報の一つには違いありません(例えば、生物史はどのような過程を通じて人間を生んだのか)。しかし、人間に近いかどうかが生物の優劣や高等下等を決める基準なのではありません。
では、どのような基準をとることが生物学的に妥当なのか、という点について考えてみましょう。幸い、生物には、生きる目的があります。その目的を実現できる生物は成功者です。適者、優秀なもの、といってもいいでしょうが、高等なもの、という表現はふさわしくありません。
生命の目的は、生命サイクルを次代に伝えることにあります。生命は、生命サイクルを次代に伝えるよう、遺伝的にプログラムされているのです。ここで言う「目的」は、人生目的というときに使われる「目的」とは違います。後者は、人間意識の中の目的で、人間が自由に設定することができます。前者は、生命活動の予め決定された(プログラムされた)結果としての目的です。人間も、赤ん坊はどのようにしてもこどもに成長し、こどもも大人に成長するよう決定されています。この発生・成熟は、予め決定された結果、つまり目的です。性慾や母性愛なども、(健全に成長すれば)自然と湧きあがってくる(つまり、そうなるよう決められていた)欲望や感情です。
さて、約40億年前に生命が誕生して以来、現在まで、その生命は一度も途絶えることなく生命サイクルを受け継いできました。その間、様々な種類の生物を生んで姿形を変えてきたわけですが、その基本的な遺伝的プログラム(生命サイクルを次代に伝えるための様々な遺伝情報)は不変(不滅)です。したがって、現存生命が共有する、約40億年前の共通祖先生物は最高の成功者といえます。未だその直系の御子孫がどこかに生きておられるかもしれません{ここでは、種として変化していない、という意味で「直系」と言い表しましたが、非性的な生物についてはコンセンサスの得られた種の定義がありません(祖先生物は非性的生物です)}。
人類は、技術に絶対的に依存する生活形態を採用する、特別の種です。人間的知性を用いて自由に思考し、幻想を抱くだけならば、生物史的には特別に変わった点はありません。しかし、そのイメージをモノという肉体外の道具に具体化する技術によって、自然の流れを人為的に変える力をもっているのです(ただし、自然の法則を否定しているわけではありません)。→ドーキンス「利己的遺伝子の誤り」
人類は、祖先生命の最も異端的な傍流となっています(生命であることに変わりはありませんが)。人類は色々なところに分布できるという点で、ジェネラリストとして捉える観点も成立しますが、それは見かけ上のことに過ぎないように私は思います。
現生哺乳類のどの種が繁栄するのか、現時点ではなんとも言えません。現生人類は、この一万年間(農耕による生態系コントロール)は栄華を極めているように見えますが、その生命活動における技術依存性を高めるという属性のために、肉体的形質としては劣化の歴史をたどってきたように思われます。技術が進めば進むほど、繁殖成功度に占める遺伝的な肉体的能力の割合は低下するからです(例えば、医学が進めば進むほど遺伝的に免疫能力の低い人々も、強い人々と同じように子孫を残せるようになる)。これからどんどん技術が進歩し、そしてそれと平行して肉体的劣化が進行していきます。この関係は現代において特別に強く現われますが、初期人類の当時から弱いながらも関係としては存在していたはずです(技術の進歩とは技能に頼る部分を減らすことです)。したがって、いつまでこの関係を保つことができるのか、肉体的劣化を補うだけの技術を維持できるのか、が人類存続の分岐点になるでしょう。もちろん、それ以前に世界戦争によって全滅する危険性もありますが。いずれにせよ、哺乳類の祖先種を構成していた個体たちにとっては、人類誕生は失敗作だったに違いありませんーーー人類にとってはどうでも良いことであることはもちろん、哺乳類の祖先種にとっては、哺乳類の存続(少なくとも一つの種類は絶滅しないこと)だけが彼らの生命サイクルの目的です。
約40億年前の共通祖先生物が生み出した生命界の大きな潮流の中では、人類の悪戦苦闘もやがて泡となって呑み込まれていくのでしょう。
内伝承法)み、その99%以上が絶滅したと考えられています。
さて、自然淘汰は同一種内の個体のうち繁殖成功度の高いものを次代に伝える作用を持ちます。種が異なれば、繁殖成功度の基準となる環境が異なりますから、種どうしを比較することはできません。魚は水中生活によく適応していますが、人間は陸上生活の方に良く適応しています。魚は陸上生活者としては失格ですが、人間も水中生活者としては失格です。この進化的適応を基準にとれば、すべての種は各々の環境に(一応)適応しており、この意味ですべての種は互いに対等です。
一方、一つの種は祖先種から枝分れして(生殖隔離されることによって)誕生します。そして、再び新しい種を生んで、やがて絶滅していきます。この存続期間(誕生から絶滅まで)を種の繁栄の一つの尺度として用いることができるでしょう。ただし、その存続期間にどれだけ新種を生んだかも、繁栄の一つの尺度になります。
同じ存続期間の二つの種を比較したとき、多くの種を生んだ方が生物史的影響力は強い。つまり、絶滅した種がもっていた遺伝的形質の一部が、その種が生んだ他種によって伝えられていく確率が高い。このレベルまで来ると、上記の(に)が重要になってきます。
現存生物界は、たった一つの生命を祖先として共有しています。その共通の祖先生物からみれば、約40億年もの間、存続してきたわけですから、完璧な成功であった、といえるでしょう。カンブリア紀に誕生した様々な動物や植物も、門のレベルでは成功している、といえるでしょう(まだ5億年しか続いていませんが)。哺乳類(哺乳綱)も2〜3億年は存続しております。霊長類(霊長目)は約1億年は続いています。人類(ヒト科)はまだ500万年しか続いていません。現生人類(サピエンス種)の歴史は約20万年でしょうか。
このように、分類単位を大きくとれば、存続期間は長くなりますが、生命を営んでいるのはあくまでも種に属する個体です。哺乳類の内ある種(の個体たち)は早々に絶滅してしまったのですが、最も長く生きてきたのは、哺乳類(哺乳鋼)を生んだ祖先種(爬虫類に属する)の個体達です。個体の生命としてはその寿命によって消滅してしまうのですが、その個体たちそれぞれの生命サイクルは姿形を変えながら、脈々と現代まで生き続けているのです。新生代は哺乳類の時代といいますが、確実に言えることは哺乳類の祖先種はたしかに成功している、という事実です。仮に霊長類が全部絶滅しても、ラットが生き残れば、哺乳類の祖先種にとっては何ともないことです。その祖先種の遺伝的形質の一部がラットに引き継がれていくからです。
生命サイクルを次代に伝えるという生命の基本目的を基準にすれば、このように種を多く誕生させる祖先種というのは優れた種である、ということができます。地殻変動やその他の環境異変があっても、祖先種が多様な種を生んでおけば、どれか一つの種は残ってその祖先種(を構成していた個体たち各々)の生命サイクルを次代に伝える確率は高くなるのです。
また、「高等である」という評価は、人間の思考イメージにのみ存在する人間的価値観です。生物界(客観世界)そのものには実在しません。人間に近い生物ほど高等であり優秀であるというのは、人間が恣意的に決めた(思い込んでいる)主観的価値観なのだ、と言ってもよいでしょう。、高等も下等も、或いは優劣もないという事実です。高等や下等は、人間が生物界を評価する時に始めて生まれる言葉ですから、人間の価値観に固く結び付いています。
高等生物とか下等生物という言葉が今でも使われていますが、誤解を招きかねない表現法です。
こうした事項を比較基準とする科学的な(客観的な)根拠はどこにもありません。
基準高等・下等の区別は、優劣と同じように
しかし、ちょっと考えただけでこのイメージが同義反復に陥っていること、つまり意味のない命題であることがわかります。高低、優劣などの比較には、必ず比較のための基準を必要とします。人間が高等であるとする人々は、その基準として人間に有利なものを選んでしまっているのです。したがって、結論は最初から決まっています。
蜜蜂のように太陽コンパスを用いる能力も、紫外線や偏光を見る能力はありません。コウモリのように、超音波をコミュニケーションの手段にする能力はありません。犬のような鋭い嗅覚もありません。人間としての知能は、猿より高いのは当たり前のことです。しかし、猿としての知能は、猿の方が比較にならないほど人間より上なのです。人間は地上に住むことはできますが、土壌の中や水中では暮らせません。こうした肉体的欠陥を補完することによって、生息圏を拡大したり、認知世界を広げる役目をもつのが、われわれの知性と器用さです。
技術は人間の肉体的機能を補充・拡大する(肉体外の)道具や手段である
と定義しておきます。このとき、
人間は技術に絶対的に依存する唯一の哺乳類である
バーソロミュー1952(河合雅雄「人間の由来」より)
ということができます。
種が異なれば、生きる土俵が違います。したがって、種を構成するメンバーが備えている能力も、その土俵に見合ったものに進化してくるのです。
「高等な人間」イメージは単なる誤解にとどまりません。それは偏見というべき性格のものです。まず第一に、動物を下等に見る偏見は、人間と動物との連続性について盲目にさせます。第二に、人間本位の視点は、動物自身の世界を理解する道を妨げます。第三に、人種差別と同じで、動物になら何をしてもよいという態度を生みます。
人間同士でさえ、他人を本当に理解するのは不可能であるのに、まして(人間同士より違いが桁外れに大きい)他の動物のことは本当には理解することが絶対的に不可能だと私は思います。殆ど全く知らないのに(したがって比較そのものが成立しないのに)、人間と比較できる能力だけをみて劣っているとする態度は、傲慢以外のなにものでもありません。こういうからといって、もちろん、他の動物を全く理解できないといっているわけではありません。他人もある程度理解できるように、他の動物も、人間に進化的に近かったり、社会形態的に近かったりしていればいるほど、(つまり比較の基準を共有できる種ほど)理解しやすい、と思われます。
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