人間は高等か
 

動物は、愛と同情のほかにも社会本能と結びついた性質、人間でなら道徳と呼ばれる性質を表す
:犬が良心によく似た何かをもっているとする点で私はアガシーの意見に賛成である。
犬は何らかの自己規制の力をもっているのだが、それが恐怖だけから来るようには見えないのである。
        ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰) 第二版 1871より
 
人間は高等である、という幻想が蔓延っています。例えば、「高い」知性や道徳性、或いは器用さをもって、人間は他の動物や植物よりも優秀である、と考えるのが一般的です。 (1)比較の基準  高等下等の区別をつけることに限らず、一般に比較するためにはその比較基準を必要とします。高い知性(実は単に人間的知性)とか道徳性とか器用さ、或いは生態系の頂点に立っているということとかが、人間を高等であるとする際の基準とされます。しかし、ではなぜそれが高等であることの基準とされるのでしょうか? 妥当な唯一の理由は、そうした特徴が人間的特性だからです。つまり、人間的基準をもって生物どうしを比較しているわけですから、人間に似ているものほど高等であり優秀であるという結論が出るのは当たり前のことなのです。言い換えれば、人間は高等であるとか、人間は優秀であるとかいう言明は、トートロジーに陥っているのです:人間は人間だ、といっていることに等しいということです。更に言い換えると、「高等である」という言葉が指している事柄は「人間にどれだけ近いか」という事実なのです。 (2)生物史的基準 人間にどれだけ近いか、ということも生物どうしを比較するときの基準の一つには違いありませんし、人間にとってはそれも知りたい情報の一つには違いありません(例えば、生物史はどのような過程を通じて人間を生んだのか)。しかし、人間に近いかどうかが生物の優劣や高等下等を決める基準なのではありません。 では、どのような基準をとることが生物学的に妥当なのか、という点について考えてみましょう。幸い、生物には、生きる目的があります。その目的を実現できる生物は成功者です。適者、優秀なもの、といってもいいでしょうが、高等なもの、という表現はふさわしくありません。
  さて、約40億年前に生命が誕生して以来、現在まで、その生命は一度も途絶えることなく生命サイクルを受け継いできました。その間、様々な種類の生物を生んで姿形を変えてきたわけですが、その基本的な遺伝的プログラム(生命サイクルを次代に伝えるための様々な遺伝情報)は不変(不滅)です。したがって、現存生命が共有する、約40億年前の共通祖先生物は最高の成功者といえます。未だその直系の御子孫がどこかに生きておられるかもしれません{ここでは、種として変化していない、という意味で「直系」と言い表しましたが、非性的な生物についてはコンセンサスの得られた種の定義がありません(祖先生物は非性的生物です)}。
  人類は、技術に絶対的に依存する生活形態を採用する、特別の種です。人間的知性を用いて自由に思考し、幻想を抱くだけならば、生物史的には特別に変わった点はありません。しかし、そのイメージをモノという肉体外の道具に具体化する技術によって、自然の流れを人為的に変える力をもっているのです(ただし、自然の法則を否定しているわけではありません)。→ドーキンス「利己的遺伝子の誤り」 人類は、祖先生命の最も異端的な傍流となっています(生命であることに変わりはありませんが)。人類は色々なところに分布できるという点で、ジェネラリストとして捉える観点も成立しますが、それは見かけ上のことに過ぎないように私は思います。
  約40億年前の共通祖先生物が生み出した生命界の大きな潮流の中では、人類の悪戦苦闘もやがて泡となって呑み込まれていくのでしょう。



 

内伝承法)み、その99%以上が絶滅したと考えられています。

 

 また、「高等である」という評価は、人間の思考イメージにのみ存在する人間的価値観です。生物界(客観世界)そのものには実在しません。人間に近い生物ほど高等であり優秀であるというのは、人間が恣意的に決めた(思い込んでいる)主観的価値観なのだ、と言ってもよいでしょう。、高等も下等も、或いは優劣もないという事実です。高等や下等は、人間が生物界を評価する時に始めて生まれる言葉ですから、人間の価値観に固く結び付いています。

 
 
 

こうした事項を比較基準とする科学的な(客観的な)根拠はどこにもありません。

 
 

基準高等・下等の区別は、優劣と同じように
しかし、ちょっと考えただけでこのイメージが同義反復に陥っていること、つまり意味のない命題であることがわかります。高低、優劣などの比較には、必ず比較のための基準を必要とします。人間が高等であるとする人々は、その基準として人間に有利なものを選んでしまっているのです。したがって、結論は最初から決まっています。
 

蜜蜂のように太陽コンパスを用いる能力も、紫外線や偏光を見る能力はありません。コウモリのように、超音波をコミュニケーションの手段にする能力はありません。犬のような鋭い嗅覚もありません。人間としての知能は、猿より高いのは当たり前のことです。しかし、猿としての知能は、猿の方が比較にならないほど人間より上なのです。人間は地上に住むことはできますが、土壌の中や水中では暮らせません。こうした肉体的欠陥を補完することによって、生息圏を拡大したり、認知世界を広げる役目をもつのが、われわれの知性と器用さです。

技術は人間の肉体的機能を補充・拡大する(肉体外の)道具や手段である

と定義しておきます。このとき、

人間は技術に絶対的に依存する唯一の哺乳類である
バーソロミュー1952(河合雅雄「人間の由来」より)

ということができます。

種が異なれば、生きる土俵が違います。したがって、種を構成するメンバーが備えている能力も、その土俵に見合ったものに進化してくるのです。

「高等な人間」イメージは単なる誤解にとどまりません。それは偏見というべき性格のものです。まず第一に、動物を下等に見る偏見は、人間と動物との連続性について盲目にさせます。第二に、人間本位の視点は、動物自身の世界を理解する道を妨げます。第三に、人種差別と同じで、動物になら何をしてもよいという態度を生みます。

人間同士でさえ、他人を本当に理解するのは不可能であるのに、まして(人間同士より違いが桁外れに大きい)他の動物のことは本当には理解することが絶対的に不可能だと私は思います。殆ど全く知らないのに(したがって比較そのものが成立しないのに)、人間と比較できる能力だけをみて劣っているとする態度は、傲慢以外のなにものでもありません。こういうからといって、もちろん、他の動物を全く理解できないといっているわけではありません。他人もある程度理解できるように、他の動物も、人間に進化的に近かったり、社会形態的に近かったりしていればいるほど、(つまり比較の基準を共有できる種ほど)理解しやすい、と思われます。
 
 



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