だが、人間は利他的か、と問うても、答えはイエスである。
利己的でもあり利他的でもあるという矛盾した生命が群れ生活を営む動物である。人間もその一つであり、同時に、この矛盾を意識化できる。このためにこそ人は悩むのだ。
人間の利他的行為を、すべて偽善とみなす人間不信者(人間嫌い)がいる。この人間不信者でも、人を愛する心を少しでももっているなら、この人間観(利他性=偽善)の誤りを理解することができる。しかし、もしこの人間観をもっている人が、人を愛する心を本当に微塵も持っていないのなら、この人は人間不信者ではなく天涯孤独な寂しい人で、生きていくことはできない。人間不信者は、畜大1年生についてみると、毎年200名当たり少なくとも1〜3名程度はいる。
人間不信者は、愛して欲しい人に偽善的行為を受ける経験を繰り返しているうちに、本当に愛してくれている人の存在さえ見えなくなってしまった人である。人間不信者が、本当に人間=絶対的偽善者と信じているなら、この人間不信者には、内的な道徳律が一切存在しないことになる(内的道徳律は、人間を愛すると心からしか生まれないから)。つまり、彼の行動を規制するのは社会的抑制だけであり、したがって、彼は絶対的な服従を強いられていることになる。したがってまた、彼の自由は絶対的に抑圧されており、芥川の言葉をひけば、絶対的な無責任者(理想的兵卒)ということにもなる。彼の抱える悩みは、すべて自発的欲望と外的抑制との闘いであり、自由意志は完全に抑圧されているのである。
世の中が物騒になればなるほど(もう十分すぎるほど物騒なのだが)、人間=絶対的偽善者観を抱く人、人間不信者が増えてくるのは明らかなことだ。この結果
では、どこにこの人間観の誤りがあるか。
最も先鋭的な「人間=絶対的偽善者」観は、他者に対する愛情そのものの存在を否定する。これは、事実に反するから、科学的真理ではない。最も緩い「人間=絶対的偽善者」観は、人を愛するのは結局、自分を愛しているに過ぎない、と考える。これは、論理的誤謬に基づいている。
人間の愛情や利他的行為は、確かに当の本人の利益になる。しかし、「本人の利益」は結果であって、愛情や利他的行為の動因(原因)ではない。「本人の利益」を目的とした行為は、定義により、利他的行為ではない。本人の利益を目指して(目的として、意図して)他者の利益を与えるような、みかけだけの自己犠牲を、偽善という。
利己性、利他性というのは、行為の動機、原因に言及したときに使う言葉なのである。本人の利益のみを目的とすれば利己的であり、他者の利益を目的とすれば利他的である。ただし、この目的は、意識されていてもいなくても構わない。言い換えると、「人間=絶対的偽善者」観の論理的誤りの一つは、行為の結果を行為の動機や原因と混同している点にある。
更に、最近では、ドーキンスの利己的遺伝子論の普及によって、進化的原因(究極要因)と個人的原因(近接要因)の混同も目立つようになった。人間愛を抱くことになったことの歴史的理由(進化的発生要因)は、人間愛が繁殖成功度を高める遺伝的形質であったからであろう。つまり、愛を感じ、他人を思いやることのできた祖先の人々は、そうでない祖先の人々より、総体としてはより多くの子孫を残してきたのである。
人類進化の過程では、生活単位としての部族が進化の単位になっていたかもしれません。部族間の直接的な抗争(つまり戦争)によるジェノサイドが行われた、と仮定することも、人類有史が戦争の歴史であったことを思えば自然なことかもしれません。この過程を前提にしますと、他の条件がすべて同じなら、内部結束力の強い部族が優位に立つことが想像できます。
こうした、内部結束力を遺伝的に欠くか低い部族は、様々な危機的状況を乗り越えられずに絶滅した、という風にも想像できるのです。
また、利己的遺伝子と命名することによって、遺伝子に意図があるかのような錯覚を与えてしまった。遺伝子に、心と対比できるような意図が全くないことは、余りにも明白である。
そして、利己性という言葉(概念)自体は、利他性という言葉(概念)の対立物としてのみ成立しうるが、利他的な遺伝子がありえない以上、利己的遺伝子もありえない。善悪、美醜、真偽はどれも互いに他の存在を前提にしてのみ有効である。
遺伝子の「利己性」という言葉は、それを具有する個体の繁殖成功度を下げる(犠牲にする)場合には、意味を持つが、そのようなことはありえない。生存・繁殖に不利な遺伝子が同一種内の全メンバーに共有されていれば、その遺伝子は繁殖成功度を下げることには寄与しないのである。そのような種は、遅かれ早かれ、種として絶滅する。生存・繁殖に不利ではないが不要な遺伝子なら、繁殖成功度を下げることにも寄与しないし、種絶滅を誘発することもないから、分布を広げることができる。だが、こうした類の遺伝子を「利己的」と呼ぶのは、適当ではない。それは、何も犠牲にしてはいないからだ。また、この不要な遺伝子の増幅によって、他の遺伝子の存続を抑制するのであれば、「利己的」と呼んでも差し支えないかもしれないが、このような遺伝子も存続することはできない。「他の遺伝子」として最も重要なのは、ゲノム(個体が持つ遺伝子の総体、一セット)そのものであるが、ゲノムの存続を抑制するような(つまり、繁殖成功度を下げるような)遺伝子は、淘汰によって除かれるからである。
「利己的」遺伝子の作用する他者として、個体をとろうと遺伝子をとろうと、それを犠牲にしているわけではないことが明らかだろう。
事実は単に、個体の繁殖成功度(または包括適応度)を下げることには寄与しない遺伝子のみが、子孫に伝わるということだ。
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