人間は利己的か
 

動物は、愛と同情のほかにも社会本能と結びついた性質、人間でなら道徳と呼ばれる性質を表す
:犬が良心によく似た何かをもっているとする点で私はアガシーの意見に賛成である。
犬は何らかの自己規制の力をもっているのだが、それが恐怖だけから来るようには見えないのである。
中略
社会本能は、幼い動物が両親と長いこと一緒に暮らすことによって進化してきたのだろう。
だから、社会生活によって感じられる歓びはおそらく親の愛情や子どもの愛情の延長なのだ。
この延長は一部は習得によるものだが、基本的には自然淘汰によって備わったものと思われる。
        ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰) 第二版 1871より

しかしわれわれには、これらの創造者に刃向かう力がある。
この地上で唯一われわれだけが利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ。
ドーキンス(利己的な遺伝子、1976、1989)

理性のわたしに教えてくれたものはひっきょう理性の無力だった
芥川(侏儒の言葉)
 
人間は利己的か、と問えば、答えはイエスである。

だが、人間は利他的か、と問うても、答えはイエスである。

利己的でもあり利他的でもあるという矛盾した生命が群れ生活を営む動物である。人間もその一つであり、同時に、この矛盾を意識化できる。このためにこそ人は悩むのだ。

人間の利他的行為を、すべて偽善とみなす人間不信者(人間嫌い)がいる。この人間不信者でも、人を愛する心を少しでももっているなら、この人間観(利他性=偽善)の誤りを理解することができる。しかし、もしこの人間観をもっている人が、人を愛する心を本当に微塵も持っていないのなら、この人は人間不信者ではなく天涯孤独な寂しい人で、生きていくことはできない。人間不信者は、畜大1年生についてみると、毎年200名当たり少なくとも1〜3名程度はいる。

「人間=絶対的偽善者」観の誤り
 人間=絶対的偽善者観をもつ人間不信者が、本当に(心の底から)この人間観を信じているなら、彼には道徳も自由も責任感もないはずだ、ということを上に説明した。しかし、そのような人間は天涯孤独な人であるから、滅多にいるものではない。つまり、人間不信者者は、本当のところは(意識下においては)、「人間=絶対的偽善者」観を信じていないと思われる。

では、どこにこの人間観の誤りがあるか。
最も先鋭的な「人間=絶対的偽善者」観は、他者に対する愛情そのものの存在を否定する。これは、事実に反するから、科学的真理ではない。最も緩い「人間=絶対的偽善者」観は、人を愛するのは結局、自分を愛しているに過ぎない、と考える。これは、論理的誤謬に基づいている。

人間の愛情や利他的行為は、確かに当の本人の利益になる。しかし、「本人の利益」は結果であって、愛情や利他的行為の動因(原因)ではない。「本人の利益」を目的とした行為は、定義により、利他的行為ではない。本人の利益を目指して(目的として、意図して)他者の利益を与えるような、みかけだけの自己犠牲を、偽善という。

利己性、利他性というのは、行為の動機、原因に言及したときに使う言葉なのである。本人の利益のみを目的とすれば利己的であり、他者の利益を目的とすれば利他的である。ただし、この目的は、意識されていてもいなくても構わない。言い換えると、「人間=絶対的偽善者」観の論理的誤りの一つは、行為の結果を行為の動機や原因と混同している点にある。

更に、最近では、ドーキンスの利己的遺伝子論の普及によって、進化的原因(究極要因)と個人的原因(近接要因)の混同も目立つようになった。人間愛を抱くことになったことの歴史的理由(進化的発生要因)は、人間愛が繁殖成功度を高める遺伝的形質であったからであろう。つまり、愛を感じ、他人を思いやることのできた祖先の人々は、そうでない祖先の人々より、総体としてはより多くの子孫を残してきたのである。

より多くの子孫を残すことに貢献する遺伝子は、より多くの子孫を残すことを通じてその遺伝子そのものを増やす。これが、利己的な遺伝子と呼ばれる所以である。利己的な遺伝子の対立因子は利他的な遺伝子である。他の遺伝子の進化的増幅は高めるがみずからは歴史的に減少するタイプの遺伝子が、利他的な遺伝子ということになるが、これは明らかに、存在し得ない(一時的に存在しても、歴史的に消滅する)。つまり、利己的遺伝子論を援用した議論は少なくとも二重の論理的誤りを侵していることになる。
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