人間本性とその由来
動物は、愛と同情のほかにも社会本能と結びついた性質、人間でなら道徳と呼ばれる性質を表す
:犬が良心によく似た何かをもっているとする点で私はアガシーの意見に賛成である。
犬は何らかの自己規制の力をもっているのだが、それが恐怖だけから来るようには見えないのである。
中略
社会本能は、幼い動物が両親と長いこと一緒に暮らすことによって進化してきたのだろう。
だから、社会生活によって感じられる歓びはおそらく親の愛情や子どもの愛情の延長なのだ。
この延長は一部は習得によるものだが、基本的には自然淘汰によって備わったものと思われる。(p.88)
ダーウィン 人間の由来(と性に関連した淘汰) 第二版 1871より
はじめに
なわばりから群れへにおいては、人間本性の歴史的発生要因について概観します。これに対し、氏か育ちかにおいては、人間本性の個体発生的要因について考察します。
また、下記には、より個別のイントロダクションを行いました。
人間の心理や行動を理解するために明らかにされなければならない点がいくつかあります。
第一に、知情意の関係です。知に関係する能力を知性、情に関係する能力を感性、意に関係する能力を理性と呼んでおきます。
第二に、知情意と知性、感性、理性のどこまでが遺伝的でどこからが後天的なのか、という点です。遺伝的な形質は、人間がいかに「崇高」であろうと、覆すことはできません。これが自然の法則です。
自然を「征服」している点に人間の偉大性を読み取ろうとしている人々がいますが、それは全くの誤解です。確かに、自然を人間に都合よく改変していることは事実ですが、それはあくまでも自然の法則を利用して(つまり自然法則に随って)行ってきたものに過ぎません。しかし、その法則性のほんの一部だけをつまみ食いするものだから、しっぺ返しを受ける始末です(支流のつもりで造った川が本流になって、洪水で(人間が)苦しめられる)。おめでたい誤解といえますが、危険です。
→人間は高等か?
人間が他の動物より高等であろうと下等であろうと、それは人間の主観的な(勝手な)解釈の一つに過ぎないのですから、それ自体としてはどうでも良いことです。しかし、人間は高等であるという錯覚に満足している人々は、既述のように、人間が自然法則をも改変する力を持っているのだ、と錯覚する点で危険なのです。つまり、目が曇ってしまうのです。
→ドーキンス「利己的遺伝子論」の誤り
第三に、人間本性がどのような進化的要因によって形成されてきたのか、という点です。特に、喜怒哀楽の情は、動物(哺乳類)の最も本源的な性質です。
→なわばりから群れへ
事実、どのような情が湧きあがるか人間理性は制御できません。知性と理性が行うのは、この非合理な情を何とか合理的に処理するよう努めることです。
その進化的要因を探ることは生物学的に重要であることはもちろんですが、人間が本当に求めていること(幸福の状態)を知るための鍵を得ることであるかもしれません。
→幸福とは何か
人間は、そもそも何故社会(群れ)を形成しているのか。それは、人間の自由意志による契約などではなく、生物学的必然です。人間は、一人では生きていけないよう遺伝的にプログラムされているのです。自由意志がなしうることは、どのような社会を作るのかという点に少々の介入を行うことです。どのような社会を思い描くにせよ、社会の「最低限」の基本目的が、次代を担う健全な子どもを育てることにあることは自明のことです。そうでなければ、社会は自滅するからです。
そして、この基本的で最低限のことが現代日本では脅かされているという憂れうべき状況なのです。
→子どもを守る
それは、経済至上主義(拝金主義)に基づいて、金持になることが幸福の必要十分条件であるという暗黙の、無定見な前提によって、子どもを育てる環境(地域の人間関係と自然)を破壊することに無頓着というか、とにかくカネとモノを得て「快適に」生活することが目的となってしまったことの当然の帰結とも言えます。そこでは、「個人の自由」という価値観が誤解され(曲解され、都合よく理解され)て、利己主義(自分勝手)が蔓延ることになりました。
→自然保護の理念
おとなが利己的生活をおくる限り、利己的な子どもしか育ちませんが、クローン人間作成に関するわが国の論調をみると、その利己主義の根がとても深いことを実感させられます。すなわち、わが国の論調では、クローン人間を作る側のメリットだけが議論されて、作られる側、つまり誕生してくるクローン人間の人権に対する配慮を行ったものが一つも見当たらないのです。
→人間の尊厳とクローン人間