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はじめに 欧米諸国はクローン人間の作成を目的にした研究を禁止または延期しようとする方向で動いている。わが国では議論自体が低調であるうえに、容認・推進する論調がその大勢を占めているようだ。本学新入生のうち180名(男女90名)を対象にしたアンケート結果(容認・推進派20%、反対派60%、わからない派20%)からも推し量ることができるように、恐らく国民の多くがクローン人間作成について漠然とした嫌悪感や危機感を抱いているものと思う。 だが、どうしてクローン人間作成が嫌悪感を催すのか、この嫌悪感に正当性はあるのか、またクローン人間作成はなぜ禁止されるべきなのか、真剣な論議はほとんど行われていないのがわが国の現状であるように思われる。そこで、本稿では、クローン人間作成が非人道的であることの客観的根拠を提示したい。
クローン羊のドリーが誕生して、クローン人間誕生が空想物語ではなくなった。ドリー作成者の一人ウィルムットを含む社会・宗教・テクノロジープロジェクト(スコットランド教会内)は、5月23日、クローン動物作成を食糧生産用に行ってはならないこと、治療的に有用な蛋白質をミルクとして生産する目的に限ってクローン動物作成を行うこと、クローン人間の作成は絶対に行ってはならないことを世界に呼びかけることなど、明確な方針を打ち出した。 一方、サイエンス5月30日号によれば、ヒューマニズム国際アカデミー会員の内30名(「利己的な遺伝子」のR.ドーキンス、「社会生物学」「生命の多様性」のE.O.ウィルソン、ワトソンとともにDNAの二重螺旋を発見したF.クリックを含む)は、5月16日、声明を発表し、人間を含むどのような高等動物のクローン作成も過去の科学や技術に関連して直面した以上の深いモラル的問題を発生させないだろうとし、ラッダイト排斥的な研究規制に対する警戒を呼びかけた。 6月初めには、米国生命倫理諮問委員会が、クローン人間作成に関係する一切の研究に国家資金を援助しないことを大統領に勧告した。だが、私的資金による医学研究の為の研究については、子宮に移植する前(母胎外クローン胚)までは許可するよう勧告した模様である。 人間の尊厳や自然の秩序を守ることを排斥派は訴える。推進派は、クローン人間作成が一卵性双生児の誕生と異なることはないことや、「自然の秩序」が育種や農業など、これまでの技術によっても十分に乱されているものであることなどを主張して反対論を斥ける。更に、こうした曖昧模糊とした感傷を守る為に、クローン人間作成がもたらす輝かしい社会的有用性を捨てることは愚かである、と説く。
クローン人間は、その生い立ちと家庭環境を別にすれば、男女の熱愛によって誕生したわれわれと変わることのない人間である。核の遺伝的素材だけからみればクローン人間と核ドナーの関係は一卵性双生児の関係に等しい。お互いに自我は全く独立であり唯一無二である。だが、一卵性双生児の場合と同じように容貌はもとより性格や能力もよく似る。 唯一無二の自我は人間として尊重されなければならない。これは現代社会の基本的合意である。というより基本的目標である。だが現実には、部落差別や民族差別、或いは人種差別がつきものであるし、「クローン人間やーい」というようないじめが行われる体質をもつのが現代である。 これは、クローン人間作成のもたらす二次的社会効果と呼ぶべきであり、クローン人間作成に直接結びついた問題ではない。それを受け入れる側の差別・偏見にこそ悪があるからだ。また、ある種の宗教団体や秘密部隊がクローン人間を意のままに育てようとすることも成功するかどうかは別にして可能であるし、誰も自分の知らないうちに核ドナーにされていたというようなことも起こりうることである。こうしたことも、技術の悪用のたぐいだ。想像力をたくましくすれば、このほかにも様々な悪用が考えられるのだろう。 だがこうした二次的効果は、これから私が示そうとするクローン人間作成のもつ内在的悪を示すものではない。内在的悪つまり非人道性は、理想的に善良な社会を設定しても、クローン人間は人間の尊厳を完全に喪失して誕生するばかりではなく、この生い立ちの為にわれわれの想像を遥かに超える孤独と屈辱を味わう運命を背負う、という点にある。
@人体実験
動物実験によって安全性を確かめられた薬が人間に致命傷を与えてきた事実からわかるように、クローン人間作成技術が完成する為には必ず人体実験が必要である。仮に、霊長類におけるクローン化一般法則を発見することができたとしても、クローン人間が核ドナーのもつ遺伝的潜在能力を完全にコピーしているかどうかは、彼(女)の成熟と老化を霊肉両面で調査するまでわからない。この意味でも、それは人体実験である。
Aクローン人間の生い立ち
(1)実親の喪失 男女は遺伝子を半分ずつ提供するからこそ実の親となる。だから、クローン人間には実親が絶対的に存在しない。クローン人間にとって核ドナーは唯一の血縁である。両者は遺伝的素材からみれば一卵性双生児の関係にある。だがその伝達経路からすれば、なんとも表現できない新奇な関係である。 人間は「自由に思考しなさい」と遺伝的にプログラムされている。だが、この遺伝的プログラムには「自由に感じてはいけません」ということも組み込まれているのである。快い内外の刺激には快楽と喜びを感じ、猛獣には恐怖感を感じ、哀しい出来事には悲しみを感じる。 体験によって無自覚的に誘発される感情の湧きあがりを知性と理性によって制御することができないことは、誰もが知っていることである。知性と理性が制御するのは感情の発生そのものではなくその外面的表出形態の一部である。知性と理性はまた、行為の決断において感情を抑制して決断の論理を冷静に組み立てることにも利用される。 クローン人間と核ドナーとの間に生まれる新奇な血縁的人間関係、つまり新奇な感情関係をうまく処理する為の遺伝的潜在能力を人間がもっていないことは明白である。したがって、この新奇な血縁関係が不気味なほどに錯綜した感情関係を招くことは必至であろうと思われる。 更に、人間はどんなに深く育ての親を愛しても、またどんなに我が身を捨てた愚かな親であろうとも、哀しいくらい執拗に実親を探し求める。実親は人間を生命活動の歴史の中に繋ぎ止める鎖として働いて、人間を絶対的孤独から救う絶対的な保護者なのであろう。クローン人間は実親を絶対的にもたないから、われわれの想像を遥かに絶する孤独をいずれ味わう宿命にある、といってよい。
(2)人間の尊厳と絶対的自由の喪失 人間の尊厳、価値、絶対的自由は、幼少の頃から誰もが感じる自尊心、遺伝的にプログラムされた人間の本性、に裏付けられた主観意識(価値観)であると同時に、人間にすべての人々がこの点で対等であることを納得させる主観意識でもある。この主観意識は、個人の生命がそれ自体としての目的つまり価値を持ち、決して他者の目的つまり手段や道具にはならない、という人間関係(客観的現実)を倫理的に要請している。だが、クローン人間は二重に人間の尊厳を失っている。
(1)技術過程によって生産されるのはモノ(使用価値)である。 作成されるモノは今の場合クローン人間であり、無機質な物体ではない。だが、どちらの場合にも、使用価値をもちカネと交換される価値をもつ点で、つまり道具や手段としての価値をもつ点で共通している。どんなに愛情深い不妊症の「親」であっても、クローン人間を「所有する」ためには、医者に対する高額の技術料を払う為の特別枠の労働を必要とするのである。 モノはまた代替可能であることを本質とする。この点でも、クローン人間がモノ的存在に転落していることは明白である。クローン人間は、少なくとも新生児として誕生するまでは、完全に「親」の目的を実現する為のモノ、道具や手段として処遇され、人間の尊厳、生命の主体性、絶対的自由を保障されることはない。
受精卵の超人為性 受精卵の一つ一つは、天文学的偶然によって生まれる唯一無二の創造である。減数分裂時の遺伝的組換え、男女の巡り合い、そして精子と卵子の巡り合い。この三段階におけるそれぞれの天文学的偶然が積み重なって、どの受精卵(個人の生命)もたまたま現在に生きる好運を与えられている。過去にも未来にも絶対的に出現できないところの天文学的偶然性、絶対的な唯一性、超人為性を持つのである。この点で、有性生殖を行うすべての生物は全く対等である。
超人為性と人間の尊厳 精子と卵子の二つの生命活動が共鳴して、超人為的で唯一無二の新しい生命として生まれ変わり、新しい主体性を獲得する。その超人為性は、受精卵の唯一無二的な内実は、どんなに科学が進歩しても予測できないし、どんなに技術が進歩しても製造できない、という点からも納得できるだろう。 つまり、受精卵は人類の過去と未来をふくむ全ての人類史の文化的営為を遥かに超えた創造である。この超人為性のために、受精卵は何ものからも自由な絶対的自由とそれ自体の価値(存在自身に帰属する目的)をもち、生命としての尊厳と人間としての尊厳をもつ。 人間は超人為的過程によって誕生する。この自然性、自然の秩序、或いは生物学的事実が、人間に生まれながらの尊厳と絶対的自由を与えているのである。有性生殖を行うすべての生物の受精卵もこの点で全く対等である。
クローン人間 人間の生殖行為は、子どもを作ろうとする意図的な行為つまり人為であるより前に、男女の熱愛過程である。この愛情が行為の意図性を霞ませ押しつぶして超人為的な存在を生む力となる。 クローン人間作成は、愛情という自然性を否定することによって成り立つ技術的介入である。所詮それは単なる技術であるから、超人為的な、尊厳を備えた人間を生むことはできない。 クローン人間は核ドナーの遺伝的コピーとして誕生するから、その内実は人間によって完全に予想され完全に制御されている。「親」の利己的欲望を実現する手段として誕生し、その遺伝的素材は「親」による意図的な押し付けである。このようにクローン人間は絶対的不自由をもって誕生する。人間でありながら、人間として絶対的に守られるべき尊厳(自尊心)の生物学的根拠を完全に欠落して誕生するのである。少なくとも新生児として誕生するまでは産業用の家畜以下の扱いである。もちろん、クローン人間は人間の遺伝的プログラムをもつから、主観的には自尊心をもつし、人間の尊厳が保たれることを欲している。
(3)人間愛の喪失 人間の心は複合的感情からなっているが、愛そのものは直接的で純粋な直感的感情であり、無欲である。異性愛では、この無欲の愛に、他者と融合しようとする欲望つまり性慾(性慾はそれ自体単純な肉欲ではなく、肉的生と心的生の複合である)が結合しているし、母性愛や父性愛では子どもを守ろうとする欲望、保護本能が結合している。 これを言い換えると、他者に対する愛は他者に対する尊敬の無自覚的直感、したがって敬愛になっている。他者を愛する為には、他者は自分とは完全に独立していなければならないし、自分の自由になるものであってはならぬ。他者は人間の尊厳を備えた人間でなければならないのである。 これを裏返すと、すべての人間は愛される為の条件を備えて誕生してくる、ということだ。この点で出産は象徴的である。親は期待と不安の錯綜に苦しむからこそ、深い感動と超人為的な力、天命、自然力に対する感謝と敬虔な気持ちを抱くことができるのである。こうして、こどもはわが力の及ばぬ天からの授かりものとして尊重され、愛される。 一般の人々は偏見と差別さえなければクローン人間をふつうに愛することができる。だが、最愛者たるべき「親」がクローン人間を愛することにおいて最も人後に落ちることは誠に皮肉である。不妊症のひとが「親」になる場合は、他の人々が「親」になるよりこどもに対する「尊重心」が生まれやすい、と想定することもできるだろう。しかし、「親」が感じることができるのはクローン作成技術に対する「感謝」に過ぎない。その謝礼としてカネを払うのである。「こども」は高価な買い物であったからとても貴重ではある。だが、「親」は「こども」を人間として尊重し愛するための生物学的契機を一つももっていないのである。 また、わが子を失った悲しみからそのクローンを作成することは、クローンがわが子の代用に貶められるだけではなく、亡くなったわが子に対する愛情を他者へ転嫁すること、すなわちわが子への冒涜そのものである。 どんなに崇高な目的があろうと、人間を手段として扱う限り、その人間自身を愛することは絶対にできないのである。
Bクローン人間の家庭環境
クローン人間はその生い立ちを知ることがなければ幸せに成長する、と仮定することも一応できる。だが、出発点において既に蹂躪された彼(女)の人格が出生後に尊重されることを期待することはできない。感情は直感であるから、知性や理性でどうこうできるものではないからだ。また、実親はどうしても探さざるを得ないから、彼(女)が自分の生い立ちを知ってしまうことも必至であり、したがって絶対的孤独と絶対的屈辱を味わうことになるのも彼(女)の宿命である。 しかし、より深くクローン人間の成長を理解する為に、彼(女)の家庭環境を分析することにしたい。もちろん、家庭外では差別・選別されることなく、人権を尊重されている理想的な社会を前提にして話を進める。人間が健全に成長する為には親の愛と暖かい家族関係を必要とする。
家族愛の欠除 男女は性行為から出産までの過程を共有することによって、こどもをわが子として直感し、男女それぞれの遺伝的素材の絡み合い、熱愛の結晶であることを直感する。この直感こそ実親としての絶対的な愛の源泉である。ただし、男は相手の女を100%信頼していれば、性行為の共有だけでわが子を直感できるだろう。 おまけに実親は、わが子に互いに夫婦愛を感じているのである。つまり、親がこどもに感ずる愛は直接的で直線的な父性愛や母性愛と、相手に対する異性愛とが溶け合った融合的愛情或いは円環的愛である。これが家族の生物学的絆となる。夫婦の不和が幼いこどもをいたく傷付けるのは、自分の心の中で溶け合っていた父と母の融合的愛情が二つに引き裂かれるからに違いない。 クローン人間の「親」にこうした愛のひとかけらも期待することはできない。そこには家族愛がないのである。確かに、「親」どうしの異性愛はあるかもしれない。だが、クローン人間はそれからも疎外されているから、余計に鬱陶しいと感じる。 モノとして作成し、家族愛を感ずることのできないクローン人間に対して「親」がどのような感情を感ずるのか、ペットを着飾って満足するような感覚だろうか、、、想像することはとても難しい。だが、クローン人間が孤独と屈辱を味わい、健全に人格を成長させることができないということは明白であろう。 もしそれでもくじけず生きようとすれば、彼(女)は自己のルーツを探し求めるだろう。そこで発見するのは絶対的孤独と絶対的屈辱、すなわちこれまでの人間が一度も味わったことのない絶対的絶望である。この絶望の淵で彼(女)は何を行うか、それは想像できない
このように、クローン人間作成に対して人々が抱く「生命の畏怖、尊厳や人間の尊厳に対する冒涜感」、「神の領域への侵犯感」、「自然の秩序を乱すことに対する恐怖感」、、、は、単なる漠然とした嫌悪感ではない。人々は、有性生殖が生命の尊厳と人間の尊厳の根源であることを漠然とではあるが正しく直観しているというべきであるし、人間誕生に対する技術的介入が人間をモノに貶める行為であることも見抜いているわけだ。
人間の創造性と愛 受精卵の唯一無二性(予測不能性)の超人為性とそれを生む男女カップルの絶対的な代替不能性から明らかなように、その誕生過程(男女の熱愛過程)は人間が為しうる最高の創造行為になっている。科学的発見や技術開発はもとより、芸術でさえこの創造性には遥かに及ばない:芸術家は代替不能であるが、芸術品は芸術家の頭脳にイメージされた(予測された)ものの体現として人為的(人間の意図的能力の枠内にあること)であるが、超人為的ではない(人間の意図的能力を超えたこと) したがって、創造性を基準にとれば有性生殖するすべての生物の能力は全く対等である。もちろん、人為的能力を基準にとれば人間が最も優れていることは同義反復であり、意味のある主張にはならない。人為的能力を基準にとって比較できるのは人間同士であって、人間とチンパンジーをこの点で比較しても、例えば、チンパンジーはどれだけ人間に近い(人間的)かという、人間中心的な構造を持った解答しかえられない:人間的能力はチンパンジーには不要であるばかりか邪魔であり、チンパンジーとしての能力を低下させるだけのものである。
テクノ人間の知性信仰 キリスト教では、神が人間に自然を支配する使命を与えており、人間は他の生物に比べようもなく崇高であるとされる。この使命の実行が、地球の西洋的一元化と異民族放擲であり環境破壊であるわけだ。だが、人間の命を操作することはキリスト神への冒涜であるから、絶対的に許されない。しかし、日本のテクノ人間はキリスト神はもちろん、何ものも畏れぬ楽天家である。 両者に共通している点は、人間知性の絶対的信仰にある。このため、人間が高等な生物であるとする生命観のトートロジーに気づかないし、人間の尊厳と他の生物の尊厳とが客観的には対等であることも理解しない。更には、科学とテクノロジーが人類の最高の創造活動だと錯覚している。
テクノ人間の無知 自然力の超人為的な偉大に対して、西洋型テクノロジーはいかにも卑小である。テクノ人間はテクノロジーが自然を征服しているかのような錯覚に陥っているが、テクノロジーが現実に行っていることは自然力の一部をテクノ人間の都合のよいように利用しているだけに過ぎない。 人類は自然のほんの一部しか知らない。その知っている部分のうち、テクノ人間はそのほんの一部だけを知って、そこに膨大なエネルギーを人為的に注入する。これによってバランスが崩れるのは当たり前のことだが、崩れているのは人間にとってのバランスに過ぎない。人類はますますすみにくくなっているが、自然は自然力にしたがって流れていくだけである。これが、環境汚染であり、生態系破壊や資源の枯渇である。
日本的詩情と自然の真実 これを言い換えるに、テクノロジーは自然力の枠組みの中に完全に納まっているから、決して自然を超えることはできないのだ。テクノ人間は、その欲望の為に自らの無知を知ることなく突き進んでいく。自然の秩序の全体像は誰も知らない。テクノ人間は国民の科学的無知を嘆くが、本当に嘆くべきはテクノ人間自身の無恥と「無知の無知」であろう。この意味で、生命と自然に対する一体性を求める日本的詩情は客観的現実に裏付けられた、ずっと自然の真実に近い生命観と人間観をもっているといえる。日本的詩情は、超人為的な自然力を直感し、人間知の愚かさを前提にしているからだ。
日本的詩情とテクノロジーの対決 ただ日本的詩情はこころであるから、論理をもたない。だから論争には無力である。このため、テクノ人間の強欲性に吹き飛ばされるのが常である。しかし、自然は自然力で動くほかない。したがって、自然の歴史は、人間がもつべき自然観としての日本的詩情の正当性を必ず証明するであろう:それでは遅すぎるのではあるが。私が行った生命の尊厳の分析は、この詩情を論理的に補強する側面をもつ。 もっとも、日本的詩情とテクノロジーの間のこれまでの「論争」は、社会的有用性=経済的利益=テクノロジーの進歩という図式(例えば、基礎科学は役に立たないから金を出さない)を暗黙の前提として強制されていたことは否めない。初めから論争にならないのである。だが、経済利益ではなく人間の幸福を前提にするなら、日本的詩情または国土の美を第一に優先しなければならない:美しい自然と美しい人間関係があって美しい人間が育つ。この当たり前のことが通るような日本はもう戻ってこないのだろうか。
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