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6/6/97 脱稿 (この速い対応は、私の怒りが心頭に達したためです。朝日学芸部に電話したところ、紙面は議論の場ではないので、論壇時評に対する批評は掲載することができない、と断られました。そこで、論壇時評とは無関係なかたちで、クローン人間問題について考察した原稿に対する学芸部の意見を考慮して制限字数内にまとめたのが「人間の尊厳とクローン人間」(6/29/97)です:結局、没となりましたが。) クローン人間作成は、これまでの西洋型技術とは根本的に異なった技術である。これまでの技術は、人間の身体的限界を補足・拡充する身体外の道具や手段(生命をもたぬモノ)であった。人間は、技術(モノ)を作り、技術(モノ)を使用するのである。だが、クローン作成技術は、人間の身体的限界を補足・拡充する身体外の道具や手段であることに変わりはないが、この道具や手段が生命をもたぬモノではなく生きた人間なのである。一口に、(クローン)人間をモノに転落させる技術、といってよいだろう。
我が国では、文明開化するまで、自然順応型の技術で持って社会を築いてきた。このことと、我が国における、自然との一体感を求める日本的詩情の伝統とは相補的(相互依存的)な関係を持っていたものと思われる。だが、富国強兵と戦後の列島改造は経済の論理と西洋型技術の論理でもって日本的詩情を押しつぶしてきた。詩情は心であるから、嘆くことはできるが、力の論理に対抗する論理をもたないのである。したがって、クローン人間作成に対する合理的な反対論は、この日本的詩情からは生まれ得ないことは明白である。ただし、経済や技術を推進することより、日本的詩情や美を守ることを優先するような気運があれば、クローン人間作成も素朴に否定される。そんなおぞましいことはできない、というだけのことだからである。 クローン人間作成に対する国民の意見は、恐らく素朴な嫌悪感に基づく反対論と素朴な楽観論とに二分されるだろう。だが、日本的詩情がなお健在で、かつ西洋型技術の「恩恵」を享楽した生活を行っている現状から推し量ると、この二つの素朴論が同一人物に混在している場合が多い、というのが実態ではないかと思う。 山崎氏は、論壇時評「クローンと日本」で、クローン人間作成にまつわる我が国の論調をまとめるなかで、感傷的な恐怖論には合理的な根拠がないこと、クローン人間作成は日常的生殖行為と「人為」という点で同じなのだ、という二点を強調することによって、クローン人間作成には原則的には何の問題もないのだという、原則的容認論の立場を表明している。更に、三人の親(?)について、責任の所在をめぐる法律を整備することによって、クローン人間作成の悪用だけは避けよう、と提案している。 私は、クローン人間作成それ自体を容認することができない、との原則的反対論(クローン人間作成=悪)の合理的な根拠を提出したいと思う。論壇時評を読む限り、日本における合理的容認論は、前述の二点を論拠としているようである。したがって、まずこの二点の論理的な誤り(一面的理解、還元論的詭弁)を指摘し、少なくも他の論拠を提出しない限り原則的容認論は成立しえないことを示す。次に、クローン人間が人格蹂躪される宿命を背負っていることを指摘し、原則的反対論の論拠としたい。
山崎氏はまず、米本昌平氏「クローン羊が問う生命倫理なき日本」に賛同して、クローン人間と核ドナーとが人格的に同一であると想定することの誤りを指摘し、この誤解(科学的無知)に基づく国民の素朴な嫌悪感には正当性が無いことを説く。その限りで氏の議論は正しい。だが、嫌悪感は人格的同一性の想定にのみ由来するものではない。 クローン人間作成をイメージすることによって誘発される直感の核は、日本的風土によって育てられてきた詩情または美意識、すなわち人間と自然との一体性を求める心や人間の自然性を尊重する心の蹂躪に対する反発であろうと思う。 そこで、山崎氏は武田徹氏の「生殖行為って何だ」に賛同して次のように述べる。「「生殖行為って何だ」は、人為的な生命操作への感傷的な恐怖を排し、人間の場合、自然な生殖もじつは人為的な営みではないかと問う。むしろ、重大なのは、現代の日本人が生殖を意志的な行為として行う自覚に乏しく、ひいては、自己の人格形成にも責任感と自信に欠ける点なのである。」ここに、クローン人間作成を容認・推進する第一の論拠が暗示されている。 すなわち、クローン人間作成は、日常的生殖と同等の人為的行為なのだから、これを否定することはできない、というわけだ。しかし、
人間の振る舞いや単なる行動と区別される意味において行為という言葉が用いられるとき、それは意図的な行為すなわち人為的な行動を指している。これに対し、「人為的な生命操作」におけるような人為は、単にこの意味だけで使われているのではない。この時の人為は、技術的な介入行為を表しているからである。要するに、 とくに、冒頭に述べたように、クローン人間作成はこれまでの西洋技術とも本質的に異なる、(クローン)人間を道具にする技術なのである。 なお、先の引用文の明示的内容は、クローン人間作成に伴う社会倫理上の問題はとるに足らないとした上で、各人は生殖行為において「襟を正しなさい」という個人倫理上の問題を強調することにあるが、後者の問題は本稿の趣旨ではない。
クローン人間誕生と一卵性双生児誕生は本質的に同一の事象なのか? 山崎氏がクローン人間作成を容認する論拠としているらしい点はもう一つある。すなわち、氏は、米本昌平氏の「クローン羊が問う生命倫理なき日本」に賛同する形で、クローン人間の誕生は一卵性双生児の誕生と本質的に同一であること(核ドナーとクローン人間との関係が一卵性双生児どうしの関係と等しいこと)を強調しているのである。なるほど、両者が本質的に同一なら、クローン人間作成に反対する論拠は一切ない。 しかし、この同一視は、氏らが否定しているはずの遺伝的決定論ないしは遺伝的還元論と論理的には異なることのない一つの還元論を通じて行われている。つまり、 全面的には等しくないのに、一面だけを取り上げれば等しく見えることはよくあることであるが、それが論理的に間違いであることは明白である。以上、原則的容認論が提示する二つの論拠はいずれも誤りであることを明らかにした。 どちらも、還元論に反発するはずの文系の人々が還元論的議論をしているから、とても不気味である。 次に、クローン人間について考察し、それが自然に生まれたこどもと根本的に異なっていることを示そうと思う。
クローン人間は一人も肉親をもたない天涯孤独のヒトである。 このことに気づいている人はどれほどいるだろうか。哺乳類にとって、実の父と母は遺伝子を半分ずつ与えるからこそ、実の父と母になるのである。実の父と母がいなければ実の兄弟姉妹がいるはずもない。
一卵性双生児は同じ受精卵を共有し、同じ親を共有している。これに対し、クローン人間の由来は除核卵子とドナー体細胞との人工的融合細胞(卵)であるから、受精卵ではない。また実親もいないから、核ドナーと実親を共有するどころではなく、一卵性双生児どうしの関係とは本質的に異なっている。 言い換えると、クローン人間と核ドナーとの血縁関係に相当するものは生物界に存在しない(無性生殖生物どうしとの関係とも違うことに注意して欲しい)、全く新奇な血縁関係である。人間はそれに処するための感情を本性(または遺伝的素材)として全くもっていない。人間の遺伝的な歴史に裏付けられた感情的な人間関係を、屁理屈と法律的関係に変えよう、というのがクローン人間作成技術である。それは確かに知的であるが、人間関係の感情的本質に対する無知を表しているに過ぎない。「血が騒ぐ」という表現があるように、人間の本性は血(遺伝的組成)に強く依存している。知性や理性は、感情の表出形態を修飾することはできるが、感情自体を(言葉の本来の意味で)制御(または操作)することはできない。感情はその動因に触発されて湧きあがってくるものだからだ。 もう少し、具体的に考えてみよう。親がこどもを我が子として全面的に認める、つまり直感するためには、性行為から出産にいたるまでの一連の過程を男女が(知的にも感情的にも)共有することを必要とする。人工生殖はこの過程を切断し、技術的に介入するから、この直感認識を妨害する。このため、人工生殖によって誕生したこどもを我が子として認めるためには、分析的な(ひねった)思考を絶対的に必要とするであろう。それは感覚的なものでないから、こどもに対する直感的愛情(絶対的保護)の発生を妨げてしまうのである。つまり、「こども(クローン人間)」は誕生の時点で、両親からの絶対的愛情を捧げられないことを運命付けられているのである。 この親の愛情を別の角度からもみてみよう。こどもは男女の熱愛の結晶である。このため、親によるこどもへの愛は、父性愛や母性愛による子への直接的な愛だけから成り立っているのではなく、夫婦愛の投影としての愛が間接的に絡み合った複合的感情となっている。これを裏付けるように、夫婦の不和は幼いこどもを深く傷つけるが、それは、自分の心の中で融合していた父と母の融合的愛が、二つに引き裂かれるためであろうと思われる。 まとめよう。クローン人間には実の親がいない。このため、最も深い直接的な、本性としての父性愛や母性愛を受けられない。また、クローン人間は男女の熱愛の結晶ではない。このため、「育ての両親」の愛情関係からも完全に疎外された、とても孤独なヒトになる。 仮に、「育ての親」が、クローン人間作成関係者とは全く無縁であるとすれば、現在の貰い子のように深く愛される幸運に恵まれるかもしれない(「育ての親」が関係者であれば、クローン人間は自己愛か利己的欲望の対象にされる)。だが、育ての親からどんなに深く愛されても、人間は実の親を悲愴に探し求めるものである。クローン人間には、しかし、探し求める実の親はもともといないのである。 クローン人間は、結局、宇宙における最も深い孤独を味わうことになるだろう。それは、今まで人間が一人も経験したことのない孤独である。どんなに愚かであろうと実親は、人間にとって唯一の絶対的保護者であり、己を生物・社会的な歴史の流れに実質的に結び付ける絆である。クローン人間作成がいかに冷酷な行為であるか、以上の推論からも十分すぎるほどに明らかであろうと思う。だが、その冷酷性はもっと深い。
クローン人間の価値は、クローン人間作成関係者の意図に帰属する。 有性生殖においては、精子や卵子が作られる毎に減数分裂過程で新しい遺伝的組成を備えた精子や卵子ができあがる。つまり、精子や卵子の一つ一つは、すべて独自の遺伝的組成をもっているわけである。しかも、どの精子とどの卵子が出合うかは、どの男女が出会い、いつ受精が成立するかに左右された天文学的偶然にまかされている。まさしく、天からの授かりもの、なのである。 このため、人間は唯一無二の遺伝的素材をもって誕生する。つまり、人間は誰でも、天文学的偶然のおかげでたまたまこの世に生を受けている、とても好運な存在なのである。後にも先にも決して私のもつ遺伝的素材は生れ得ないだろう。
どんなに科学が進歩しても、この天文学的偶然としての私の存在経緯を説明(予言)することはできない。人間はこの偶然(運命的出会い)の自然力に感動する。さて、この唯一無二の固有性のために、人間は受精の瞬間に独自の価値を付与される、といってよい。宇宙の歴史で一度きりしか存在できないのが、一つ一つの受精卵である。受精卵にまだ人格はないが、人格の原型(素材)は既に独自の遺伝的組成としてセットされている。 一方、この唯一無二性のために、こどもの誕生は人間が行いうる創造的行為のなかで最高のものとなっている。おまけに、この創造はパートナーに対する愛と協力を不可欠の前提にして達成されるものであると同時に、自分の意のままにならない創造でもある。こうして親の側も、わが子を独自の人格として尊重すること、すなわち絶対的に愛することを学ぶのである。もちろん、こどもに対する親の絶対的愛には、進化生物学的な理由があるのだが、ここでは省略する。また、この宇宙における最高の創造的行為において、人間は他の哺乳類と基本的に異なることがないことは注意されてよい。 これに対し、クローン人間は、核ドナー指令者の自由意志に基づいて計画的に(意図的に)作成される。これは、唯一無二性を完全に欠落しているから、創造ではなくコピー生産である。人間にしかできない生産であるが、この技術が常態化した状況を想定すれば容易に分かるように、そこには何の感動も生まれない。同じ遺伝的素材をもったクローン人間は、金さえあれば大量生産できる代物なのである。したがって、クローン人間の側から見れば、自己の貴重性(唯一無二性)を自覚することは難しいし、自分の誕生には伴わない天文学的偶然に感動することはできないし、自分の誕生を男女愛の誕生と結び付ける代わりに計画者の意図(利己的欲望)と結び付けて考えなくてはならないだろう。 もちろん、遺伝的素材や人格の原型の唯一無二性だけが、人格の固有性をもたらすわけではない。生前生後の体験は極めて個人的で、多様で、偶然的である。だから一卵性双生児といえども同じ人間には決してならない。ただし、パーソナリティや知能・運動能などの個人差は、60%以上が遺伝的な個人差として説明できることが分かっている。なお、誕生当時の人格(遺伝的素材)が、育てられ方(生後の体験)を規定する(赤ん坊の泣き方一つにも個人差がある)ことも十分ありそうなことである。 いずれにせよ、クローン人間の現実的人格は、核ドナーとも異なるし、「兄弟」のクローン人間とも異なり、この宇宙に二つとない独自性を備えることは事実である。しかし、自分が次第に核ドナー(仮に「育ての親」としておく)の容貌にどんどん近づいてきて(一卵性双生児の容貌の類似性を想起されたい)とても不思議で奇妙な気分になったり、恐怖感におののく可能性は実に高いものと思われる。そして、私は一体誰?と自問し始めたとき、自分が自分一人しかいないことは何とか確認することができるかもしれないが、自分が存在していることの独自の価値を見つけることは絶対的にできない。なぜなら、自分の遺伝的素材や原型的人格は、大量生産可能で代替可能なものであり、したがって、それを備えているのが自分である必然性も必要性もないからだ。端的に言って、クローン人間作成関係者は、クローン人間の育て方に失敗すれば、一からやり直すことができるのである。 クローン人間は(誕生したら)唯一無二の人格として尊重されなければならない。これは倫理的要請である。だが、クローン人間作成者はクローン人間の人格を尊重することはできない。なぜなら、その作成には何の愛情もこもっていないからだ。また、技術による作成であるために、クローン人間(少なくとも誕生時まで)は代替可能なモノに転落しているからだ。貴重性はない。更に、この作成は、クローン人間作成者の「お気に入りの」遺伝的素材をクローン人間に植え付ける行為、つまり、最初から人格を(少なくともその原型を)操る行為であるからだ。しかも、計画どおりの遺伝的素材と容貌を見せる新生児の誕生には、何の感動も覚えない。この無感動は、人間が他者(クローン人間)に対して傲慢な関係にあること、すなわち愛することも尊重することもできないことを端的に象徴するものである。こうして、クローン人間は、その作成関係者の意図を実現する道具(または愛玩動物)に転落することは必然である。 こうした処遇に加え、その生い立ちにおける唯一無二性の欠除の自覚のために、クローン人間が、自己の社会的存在感(または自尊心)を満足させることはとても難しいことのように思われる。 自分の「こども」としてクローン人間作成を望む人々は様々であろうが、共通していることは、その望みが単なる自己愛または利己的欲望であるという点である。この欲望を実現するために、他者(クローン人間)の人格を蹂躪することがあってならないことは明白であろう。
素朴な嫌悪感 クローン人間作成に対する素朴な嫌悪感は、生殖過程に対する技術的介入の与えるイメージのおぞましさに由来するものと思われる。性行為から出産にいたるまでの過程は本質的に感覚的で感情的な過程であり、男女とそのこども(受精卵から新生児まで)をめぐる三人の人間関係である。しかも、この過程と関係は、基本的に夜の出来事といってよく、非合理であることと秘密裏に進行することを真骨頂としている。クローン人間作成をはじめとする人工生殖は、この過程を切断し、機械的な関係に置き換えることによって、性行為から出産にいたるまでの神聖性を破壊するのである。このために、嫌悪感を催すのだ、と思われる。 この神聖性を守るか捨てるか、日本人にとってそれは倫理の問題ではなく、好き嫌いの美学の問題である。したがって、この点をもってクローン人間作成反対の論拠とすることはできない。好き嫌いは基本的に個人の自由の問題であるからだ。もちろん、日本の全国民が、この神聖性を守りたいという美学を主張すれば、クローン人間作成に反対できることは当然である。 これに対し、「人格の尊重」は、国家的に十分に守られているとはいえないにしても、少なくとも、国家目的として国民の間に合意がとれている、ということができる。したがって、クローン人間作成について考える為の一つの道は、この技術が人格の尊重という点で善なのか悪なのかを明らかにすることにある。他にも考慮しなければならない問題があるかもしれないが、合理的な反対論が提示されていない現状に鑑みて、まずはこの人格論に沿って考察したわけだ。 |
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