原因がはっきりしてしまったら自然の神性は失われてしまうのではあるまいかといういわれのない心配が、因果律恐怖症の第二の主因だ。こうして、さらに探求の障害が生じる。宇宙のもつ美学的な美しさと畏敬すべき偉大さのわかる人ほど、そしておりにふれて観察する自然の出来事を美しく畏敬すべきものと感じる人ほど、この障害が大きいのである。・・・中略・・・人間の認識に限界があることを誰よりもよく知っているのは、ほかならぬ自然科学者なのだ。だがかれは、この限界がどこにあるかわからない、ということをつねに意識している。
分析的認識と論理的総合
これに対し、生物学的仕事の統合、蛋白質の作用ネットワーク、生命活動、或いは細胞機能という言葉は、どれも細胞を一つの統一体として認識するための表現である。細胞を客観的に認識するためには、われわれはまず認識対象から受ける感覚印象を捨てなければならない。更に、統一体をバラバラに分解して、部分や要素について詳しく調べる必要がある。これを分析という。この分析を通じてのみ、統一体を構成する要素間の具体的な相互関係も明らかになる。この作業はもちろんわれわれの頭の中の抽象的思考回路においてのみ行われるものである。
科学に対する素朴な反感の主な要因の一つは、科学のもつこの切り捨て的な側面にある。切り捨てによって抽出されるものは、必ずしも本質を突いているわけではないから、ひとびとの直覚と矛盾することがあるし、仮に本質が抽出されたとしても、本質は単なる抽象イメージであり、自然の実体はもっと具体的で豊富であるからだ。
科学者の基本的な仕事は、知識や法則の発見にあるから、それらの知識や法則を用いて自然の具体像を総合化する試みは極めて不十分な段階にある。哲学者がその任にあるともいえるが、哲学者には反科学者が多いような気がする。おまけに、科学者でさえ、専門外の知識をフォローすることはふつうには不可能であるのに、哲学者ともなれば専門が自然科学にはないから、いっそうの努力が必要とされる。
還元論の誤謬
近代科学は還元論である、と「反科学」主義者が科学攻撃することがよくある。
しかし、「反科学」主義者が「近代科学は還元論である」と主張すること自体が還元論である。なぜなら、近代科学の「本質」として「還元論」という側面だけを抽出して、近代科学=還元論という図式に「一面的に」還元するからである。つまり、自ら批判したはずの方法論をちゃっかり採用することによって成り立つ主張であり、完全な自己矛盾である。したがって、この種の「反科学」論は極めてイデオロギー的な(非理性的な)主張である、と断定できる。
科学は自然を理解する(認識する)営みである。テクノロジーは自然を改造する(人間のために利用する)営みである。各々の営みをその産物としてみると、科学が知識体系(頭脳の中にのみ存在する知的イメージの全人類的集積)であるの対し、テクノロジー(技術)は人間が利用するための道具や手段である。
テクノロジー(技術)は道具や手段を生む過程においても自然を改造するが、道具や手段の使用過程においても自然を改造する。
科学者は、自分が自然を理解していないことをよく知っているか、暗黙の前提にしている。知らないからこそ研究しているわけだ。自らの専門の内部でさえ、未知の事柄は無尽蔵である。まして、専門外ともなるとわけわからん、というのが実状だ。しかし、科学的知識をテクノロジーに応用する技術者が、そんな「謙虚な」態度でいたらモノは創れません。自然法則の一面的な利用こそ、テクノロジーの真骨頂といえます。加えて、経済の土台でもあるわけですから、様々な弊害を予見する暇などないのが普通です。
還元論は認識方法の問題であるから、テクノロジーという自然改造を還元論ということは間違いであるが、還元論的に自然改造を行っている、と言っても良いかもしれない。
科学技術という言葉
日本語の科学技術という言葉は、英語のScience and Technologyの翻訳であろうと思われる。Scienceは科学、Technologyは技術を指す。
科学技術なる言葉から、ある人々は科学的技術(高度な技術)を連想するが、別の人々は科学と技術の区別がなくなった「科学技術」を連想する:科学=技術という発想は、とても危険である。
科学の射程と限界
科学的認識は、観察の道具や測定の器械など様々な技術に依存した認識である。科学の射程は、技術の及ぶ範囲ということになる。もちろん、宇宙の起源や宇宙の果てなどが科学の対象となることからも明らかなように、技術が実際の作用を及ぼし得ないところでは、想像力の助けを借りることになる。このように、科学の射程は、科学と技術の進展につれて拡大する性格をもっているため、自己触媒的に拡大していく。
技術的制約による科学認識の限界が歴史的に縮小するものであるのに対し、自然に内在的な必然と偶然の緊密な相互作用的性格による科学の限界は、科学と技術の進歩に関わらず永遠に不変である。つまり自然の謎や神秘は、いつまでも残るのである。この科学の限界と自然の神秘については、
のページで考察した。
生物と生命
ここで、生物と生命という言葉について若干の反省を行ってみよう。
生物という言葉は、構造を重視したときの用語であり、生命の「入れ物」と感ずる人々もいるだろう。これに対し、生命は機能的側面を重視するときに用いられることが多い。だが、いままで再三見てきたように、構造と機能は一体のものである。細胞構造は、構造(空間秩序)として機能を発揮するのであり、また逆に細胞機能も空間的に構造化されているのであった。このことは、もちろん多細胞個体についても同様である。男の機能と女の機能は一つにそれぞれの外部形態によってもたらされることは言うまでもないだろう。もちろん、ひとが直立二足歩行するというひとにとっての基本機能は、ひとの骨格構造によるものである。
動的秩序に関する先のまとめを思いだそう。動的秩序は時空パターン(構造)であり、かつこのパターンそのものによって自己(動的秩序)をつくりだす機能(メカニズム)なのである。
構造を離れた機能はないし、機能を離れた構造はない。構造と機能がこのように不可分な統合である以上、生物と生命という用語の区別も不自然なものとならざるを得ない。構造と機能が相対的にせよ独立であるなら、異なる用語を当ててもよいが、生物の構造は単なる入れ物や反応の場(空間)ではなく、機能する実体なのである。
ただし、生物と生命は習慣的にも区別されて用いられてきたし、ひとによる認識の分析的特徴からすれば、構造を重視するときに生物、機能を重視するときに生命という使い分けを行うのもやむを得ないかも知れない。
これに対し、例えば家屋の構造などは、構造それ自身に機能があるわけではないことに注意しよう。住人が利用して初めて機能的な構造になる。つまり、家屋の構造にとって、その機能は外的に付与されたもので、構造に内在する固有な属性ではない。
いずれにせよ、生物の場合には、構造と機能は一体であり、したがって生命との区別はひとの分析的認識の限界を反映しているに過ぎないことに注意して欲しい。
生物が生命活動を行っているという表現は、生物と生命を区別したときのいいまわしである。だが、生命活動を行わない生物などいない。生命活動を行っている過程(つまり生命)そのものでしか生物はあり得ないのである。
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