生命とは何か(最後のまとめ)


これまで、細胞を中心にして生命の諸相について考えてきた。ここでは、生命系とは異なる動的秩序(擬似生命系)について概観し、これを生命系と対比して、生命の特徴を抽出しようと思う。

生態系の動的秩序

雪の結晶や蛋白質の結晶のように、自由エネルギーを放出しつくして、自由エネルギーの最小の状態つまり平衡状態に達することによって形成される秩序を静的秩序という。静的秩序は、系の平衡状態(自由エネルギーの最小の状態)にあるため、外部からの攪乱(例えば加熱)がない限りいつまでもそのままの状態を保ち続ける安定な状態にある。

これに対し、定常的に自由エネルギーが出入りしその変換を行う物質系(すなわち動的秩序)は、その変換を絶えず行うことによってのみこの変換構造を維持していけるという点において極めて不安定な状態にある、といえる。つまり、定常的な自由エネルギー変換を行うためには、そのための特別なしくみ(メカニズム)を備えている必要がある。このしくみが崩壊するとき、定常的な自由エネルギー変換も乱れ、停止する。つまり、定常的な自由エネルギー変換を行うメカニズムによって、定常的な自由エネルギー変換を行う物質系が、動的秩序(時空秩序)なのである。

その具体的なしくみは全く異なるが、生態系も生命系も自由エネルギーの定常的な消費系(動的秩序)としては基本的に同じである。そのため、生態系は、しばしば「生きている」と表現されることが多い。

生態系は、植物群落とそこに棲む様々な種類の動物、微生物及び土壌(または河川、湖、海など)と循環する無機塩類などからなる一つの物質系である。生態系においては肉食動物が草食動物を食い、草食動物が植物を食い、これらの死体を微生物が分解するという食物連鎖の網が形成されている。この食物網で表される生物間の相互作用が、生態系における定常的な自由エネルギー変換を保証するメカニズムであり、また同時に定常的な自由エネルギーの流れそのものとなっている。

細胞におけると蛋白質の作用ネットワークが、個々の蛋白質の時空バランスの調整によって統合されて時空秩序を構成しているのと同様に、食物網(食物連鎖のネットワーク)も、個々の連鎖の時間的タイミングと空間的配置によって決められており、この時空バランスが調整されていることによって、食物網としての時空秩序を形成している。 個々の連鎖の相対的バランス、つまり食物網のパターンは瞬時も同一ではなく、絶えず変転しているが、日周的にも季節的にも変動してある程度の規則性を示す。また、生態遷移として知られるようにもっと長い時間スケールでも変化しつつある実体である。

    細胞(生物個体)には予定された結果があるのに対し、食物網には予定された結果がないことに注意。
そこでまず、生態系の自由エネルギー変換について概観することにする。ただし、話を光合成を生産者とする「光と酸素の世界」に限定し、化学合成細菌によって支えられていると思われる「闇と無酸素の世界」についてふれることはできない。
    現在の地球生態系は、独立栄養(自家栄養)生物によって支えられており、生態学的には一次生産者とも呼ばれている。光合成生物と化学合成自家栄養細菌が独立栄養を営む。化学合成自家細菌は、硫黄、アンモニア、或いは鉄などの無機物を酸化することによって、自由エネルギーを得ている。酸素に晒されると死んでしまうような嫌気性の細菌で、地中奥深くに分布しているものと考えられている。その生産量は全く未知であるが、光合成生物のそれに匹敵するとも想像されたりしている。われわれの日常的な「地球生態系」が「光と酸素の世界」であるとすれば、化学合成自家栄養細菌の関係する「地球生態系」は「闇と無酸素の世界」である。そのため、「われわれの生態系」にどれほどの寄与をしているのか、全く未知である。そこで、ここでは光合成生物を基幹とする「われわれの生態系」に話を限定せざるを得ない。以後、地球生態系といえば「闇と無酸素の世界」との関係については全く謎の「われわれの生態系」を指すことにする。

一次生産者の生産力

植物個体(細胞)は、太陽エネルギーを利用して炭酸ガスと水から炭水化物を合成する。しかし、合成した炭水化物のうち、数10%は呼吸(完全酸化)によって炭酸ガスと水に戻す。こうして、

    (真の光合成速度)=(呼吸速度)+(みかけの光合成速度)
    (総光合成速度)=(呼吸速度)+(純光合成速度)
    (総一次生産速度)=(呼吸速度)+(純一次生産速度)

という関係式が得られる。

生態学では最後の一式の表現が好んで用いられる。ここでの速度はすべてエネルギー変換の速度であるから、仕事率(W)であることに注意したい。

純一次生産速度がゼロの時、植物個体なり植物群落の真の生物量増加はなく、現状維持が為される。このとき更に、葉の枯死・脱落があったり、動物に食われたりすれば、生物量が実質的に減少することになる。

    (純一次生産速度)=(真の生物量の増加速度)
    =(枯死速度)+(被食速度)+(みかけの成長速度)

地球全体の純一次生産速度はだいたい一年当たり1700億トン(乾燥重量)である。植物の乾燥重量1gが4.3?カロリー(18?ジュール)のエネルギーを含んでいると見積もると、これは約100兆ワットの仕事率に該当する。このうち、耕地の純一次生産速度は約1%で、1兆ワットである(1975年統計)。

なお、穀物生産量は1950年で約6億トン(年間)から年間約2.7%成長率で増加し、現在ではその3倍以上の年間約21億トンである。これは約1.2兆ワットであるから、穀物だけで成人(100ワット)を約120億人養える。ただし、メドウズ他「限界を超えて」(1992)のように、収穫から消費までの過程に40%のロスをみこめば、72億人が限界、ということになる。

一方、一次生産者の呼吸速度は地球全体で130兆ワット、総一次生産速度は230兆ワット、陸地生態系の純一次生産速度は約70兆ワット、呼吸速度は約120兆ワット、総一次生産速度は約190兆ワットになる。一次生産者の維持、成長のために、総一次生産の平均して約60%のエネルギーを呼吸によって失っている勘定になる。

なお、照射される太陽の可視光エネルギーのうち、総一次生産として移転される割合(効率)は、陸地で1.6%、海洋で0.2%、全地球で0.6%である。ただし、照射される光のうち、実際に吸収される光の割合を80%ととすれば、光合成の効率としては、それぞれ25%程(100/80倍)は高くなる。

総成長効率の10%則

次に、消費者について概観する。

摂食した餌のうち排泄したものの残りが、実質的な栄養物となる。これを、生態学では同化量というが、生化学的な同化という概念とは全く異なる。そこで、混同を避けるために、ここでは吸収速度(または消化速度)と表現しよう。吸収速度から呼吸による損失を差し引いた部分が純生産速度であり、動物の成長速度である。

    (吸収速度)=(摂食速度)+(排泄速度)
    (吸収速度)=(呼吸速度)+(純生産速度)

ある特定の動物個体群(同一種の個体の集まり)における、摂食速度に対する純生産速度を総成長効率といい、動物に応じて異なるものの、だいたい10%ぐらい、と見積もられている。

    総成長効率=(純生産速度)/(摂食速度)≒10%

また、似たようなエネルギー効率として累進効率または生態効率があり、これもだいたい10%前後と考えられている。これは、栄養段階1の生物(植物または動物)が摂取、摂食したエネルギーが、同じ時間の間に、どれだけ次の栄養段階2の動物に移転する(摂食される)かの割合である。

    生態効率={次段(2)における摂食速度}/{前段(1)における摂食速度}

あるネズミ個体群(1)の摂食速度を100ワットとしよう(例えば、クローバーを一日当たり約2000?カロリー摂食する)。ネズミ(1)は総成長効率10%則により10ワットの純生産速度でもって成長する。ところが、ネコ個体群(2)は、生態効率10%則により、10ワットの摂食速度でもってネズミ(1)を食う。このため、ネズミ個体群(1)は成長分をそっくり摂食されたことになるから、個体群の個体数・現存量は一定に維持されることになる。同じように、ネコ個体群の成長速度は1ワットであり(総成長効率10%則)、また、イヌ個体群(3)がネコを摂食する速度は1ワット(生態効率10%則)であるから、ネコ個体群(2)も個体数と現存量を一定に維持することになる。

前段において捕捉されたエネルギーが10%前後しか後段には移行しない、というこの生態効率10%則のために、食物連鎖の段階数には自ずと限界が生ずることになる。

食物網

細胞が蛋白質の作用ネットワーク(としての時空秩序)と規定できるように、生態系は食物網(的ネットワークとしての時空秩序)として捉えることができる。

蛋白質の作用ネットワークの具体的なパターンが、個々の蛋白質の数と分子活性や細胞内における空間配置や出現時期によって決まるように、食物網のパターンは個々の種個体群を構成する個体の数とその生物作用と生態系における空間分布や出現時期によって決まる。ここまでは、完全にパラレルであるように思われる。

しかし、食物網は目的律的過程ではないという点で、生物とは根本的に異なっている。どのような時間レベルにおける食物網過程(瞬間、日周変動、季節変動、遷移)も、特定の結果を誘導するための過程ではない。食物連鎖を構成する個々の生物がその生命サイクルを実現する結果として、無目的的に変化していく過程なのだ。

言い換えると、例えば植物は、食物網の維持と形成のために、生産活動を行うわけではないし、草食獣は肉食獣に食われるために生きているわけではない。個々の生物はただその生命サイクルにしたがって生命活動を営んでいるに過ぎない。それでも食物網としての統合が可能なのは、この食物網に適合する生物しかそこには生存できないという単純な事実による。

食物網が目的律的過程ではないことを反映して、食物網を構成する個々のメンバー(生物個体)は食物網の統合に不可欠な存在ではない。個々のメンバーの代替は同種の他個体、或いは競争種の他個体などによって代替されるのである。生物における統合では、すべての部分が互いに相互依存的であり、全体の統合のために従属していた。しかし、食物網ではこうした相互依存性、部分の全体に対する従属という事実は一つも認められない。

種間競争とニッチ分割

ある種が生態系に参画できるためには、その種が他種との競争において何らかの妥協点を見つけるか、他種を駆逐するかしかない。陰樹種が陽樹種を駆逐して極相林へ遷移するなどは、後者の典型的な例であろう。ガウゼによる、ゾウリムシ二種を用いた有名な水槽実験でも一方の種が他方の種を駆逐したが、二種が同じ環境に共存できないというこの原則をガウゼの競争排他の原理という。

しかし、環境はさまざまな環境因子の複合からなっているので、そのどれかを重複させずにすむなら、競争関係にある二種は「共存」できる。これをニッチ分割という。さて、種が必要とする環境因子の複合すなわち種の生活資源の総体(すべて)を基本ニッチ、そのうち他種との競争関係によって現実に占有できるものを実現ニッチといって区別する。有名なイワナとヤマメの棲み分けにおいては、上流をイワナ、下流をヤマメが占有するが、この場合、二種は大生息場所ニッチを分割していることになる。

このように、互いに分割されて用いられるニッチ次元としては大生息場所ニッチ、微小生息場所ニッチ、餌ニッチ、時間ニッチ(一日の活動時間帯)と季節ニッチが重要で、これを巡って競争関係に入ることが多い。こうして、実現ニッチしか用いることができないから、競争関係を持った種個体群の成長(数の増大)は抑制される。

種間競争と生態系の生産力

種内においては必ず個体間の競争がある。例えば、同一種内の植物は光や水分・養分をわれ先に獲得しようと、植物体の成長にエネルギーを注ぐ。これを消費型競争という。これに対し、サルや類人猿の群れに見られる順位制や、雌を巡る雄同士の直接的攻撃行動などは干渉型競争である。ひとの社会でも個人間の醜い争い(干渉型競争)が平素に行われている。

こうした種内競争は、自然淘汰の帰結として、生命サイクルに遺伝的にプログラムされたものであり、避けることはできない:貧すれば貪し、富んでも貪し、紳士淑女は珍しい。

これに対し、種間競争は必ず起こるというものではない。例えば百獣の王には、競争個体はいるが競争種はいない。どのようにしてか?
生態系は、その生産力に応じて食物連鎖の段数が決まる。特に、生産力と競争関係の関係を理解するために、生態系を三鎖構造、二鎖構造、と一鎖構造に分けることにする。

    一鎖構造では、事実上、生産者(植物)しか育たないような貧弱な生産力をもった生態系である。草食動物は生息するかも知れないが、その数は植物の生長を制限するほどには達しない。二鎖構造は、これより生産力は高いが、肉食動物が草食動物の数を制限するほどには育たないほどに貧弱な生態系である。三鎖構造は、肉食動物が草食動物の数を制限するほど十分な数だけ育つ豊かな生態系といえる。
三鎖生態系では、草食動物間の競争は弱い。何故なら、肉食動物が草食動物を食うことによってその数を抑制するため、草食動物の個体群密度は低いからである。個体群密度が低く抑制されているということは、草食動物はその餌(植物)を巡って競争関係にはならないということだ。人類の歴史は、三鎖生態系からの肉食動物の駆逐である。この駆逐は、草食動物の人口爆発を招き、その結果として植生の荒廃を導く。今日の日本におけるシカ害やサル害の第一要因はこれである。

これに対し、三鎖生態系における植物や肉食動物の競争は激しい。まず、草食動物の数が低く抑えられるために、植生は豊富である。つまり、空間は植物で被われており、光や水分・養分を巡る競争は熾烈になる。肉食動物は、草食動物の数を減らすことによって自らの資源不足を招くし、上位の捕食者によって食われることもないから(資源に比べ)数は多くなり、競争は熾烈である。

二鎖生態系では、肉食者の生態的価値が低い。このため、草食者が、三鎖生態系における肉食者と等価な機能を持つことになる。ここでは、草食動物は肉食動物に食われることはないから、数は多く、このため相対的に資源不足に陥るので競争は激しい。また、植物は、その体を草食動物に食われることによって成長を抑制されるので、競争は弱い。

一鎖生態系では、再び植物間の競争は激しい。植物の生長を抑制する動物がいないからである。

以上、種間競争に限定して話を進めたが、こうした関係は種内競争にもそっくり妥当するものと思われる。

まとめ

生態系は食物網(食物連鎖のネットワーク)である。

この食物網の統合原理は、一つは、生態効率の10%則で表されるような純粋に熱力学な原理である。地理的な条件によって生態系の生産力は決まり、一鎖構造から三鎖構造と食物連鎖の実効的栄養段階数も決まる。

食物網のもう一つの統合原理は、それぞれの栄養段階での競争関係であり、ニッチの分割や競争種の排除などがおこる。食物網の自由エネルギー流速は、生産力によって完全に規定され、有限なものであるから、ニッチをそこで占有できる種の数や個体数も自ずと制限されてくる。

したがって、食物網の統合原理(あるいは生態系の自由エネルギー変換を定常化するメカニズム)は、環境資源を巡る生物同士の争い、といって良いだろう。生態系の環境資源は有限であるから、この争いに任せていても、破壊は起こらないのがふつうである。ある個体群が増えすぎれば、食われるか、増えすぎたことによる資源不足のために互いに競争することによって数を減らす。ある個体群が減りすぎて遂には絶滅しても、その空白ニッチを待ちかまえていたように、すぐに他の個体群によって置き換わる。絶滅を免れた場合には、資源が豊富であるから個体群成長に弾みがつくこともあるだろう。

いずれにしても、資源は有限であり、その自由エネルギー流速は限定されている。あらゆる生物が、その流れのなかに納まろうと虎視眈々としているおかげで、このエネルギー変換は途絶えることはない。ただし、三鎖生態系での肉食動物の駆逐のように、本来のエネルギー流速を攪乱するような異変が(人為であるかどうかに関わらず)起こった場合には、もとに復帰するまで多大な時間を要することになる。だが、この場合でも、生態系の姿が異様になったというだけで、生態系としてのエネルギー変換は途絶えていないことに注意したい。

ブリュッセレーター:時間的構造

ブリュッセレータは、最も単純な自己秩序形成系の一つであり、化学反応の連鎖から構成されている。このブリュッセレータが存続するためには、物質AとBを絶えず消費している必要がある。ブリュッセレータ内部にはAとBを再生産するしくみがないので、これは外部から供給する(反応1と2)。つまり、ブリュッセレータは外部の自由エネルギーを消費する開放系である。

X濃度の増減は、反応1と3によるX生成と反応2と4によるX消滅のバランスによって決まり、Y濃度の増減は反応2によるY生成と反応3によるY消滅のバランスによって決まる。これらのバランスは、X濃度とY濃度の両方に依存している。

特に反応3が重要で、物質Xはその濃度の2乗に比例して増大する。濃度が高まれば高まるほど、濃度増加が大きくなるのである。これは、Xの自己触媒的な反応であり、XがX自身を増大させるしくみ、すなわち自己増幅である。だがもし、この自己増幅機構しかなかったら、系はXの過剰によって崩壊する。だが、この暴走を抑制するしくみをブリュッセレータは備えている。

まず、Xの増加の高まりは、同時に物質Yの消滅反応を昂進させることにもなるし(反応3)、反応2と4によるX消滅反応を促進することになる。こうして、X生成反応(1と3)に対してX消滅反応(2と4)が追いつき追い越すと、X濃度は増加を停止し、減少に転ずることになる。こうして、ブリュッセレータはい物質Xを自己増幅的に増加させるとともに、物質X自身の濃度低下をもたらす自動的なメカニズムとなっている。

X濃度が増加から減少に転ずる局面において、Y濃度は減少し続けていることに注意しよう。次の転機は、Y濃度が極端に(というか、ある程度)低下して、もうそれ以上は低下できない局面である。このとき、反応2によるY生成反応が反応3によるY消滅反応を初めて上回るようになって、Y濃度の減少が停止し、増加に転じるのである。だが、依然としてX濃度は減少し続けている。次第にY濃度が高まり、X濃度が減少すると、やがて、X生成反応(1と3)がX消滅反応(2と4)を上回り、X濃度は減少から増加に転ずることになる。Y濃度の増加はまだ進行している。

こうして、また自己増幅的なX増加が開始され、徐々にYの消滅反応(3)が大きくなって、やがて生成反応(2)に追いつくと、Y濃度の増加は停止し、減少に転ずる。X増加は進行中である。こうして、再び、X生成反応(1と3)がX消滅反応(2と4)に追いつかれて、X濃度が増加から減少に転じるのである。
 
以上、ブリュッセレータが自律的に振動するメカニズムを大雑把にスケッチした。大切な点は、(1)自由エネルギーを定常的に消費していること、(2)四つの反応とその相対的な速度バランス、並びにXの自己増幅反応とその限りない暴走を抑制する反応を含んでいることが、XとYの自発的な振動(リズム)に不可欠であること、(3)物質XとYは、ブリュッセレータ内部で合成され、自己更新されていることである。したがって、ブリュッセレータにとって、自由エネルギーを定常的に消費するメカニズムとはリズム発振を行うメカニズム(2)そのものである。そして、このメカニズムそのものによって、ブリュッセレータは、リズミカルに変動しながら、ブリュッセレータとしての構造(リズム、時間秩序)をいつまでも維持していくのであり、自己更新しているのである。
 

生命とは何か

動的秩序

これまで、生物(生命系:細胞と多細胞個体)、生態系、とブリュッセレータについてみてきた。この三つの物質系は、どれもが動的秩序(時空秩序)であるという点で共通している。

動的秩序は、定常的な自由エネルギー変換を行うメカニズムを備えることによって、絶えず自由エネルギー変換を行っている。この自由エネルギー変換過程そのものが、自由エネルギー変換のメカニズムであり、動的秩序そのものであることに注意することが大切である。

細胞は、細胞という一つの統合された全体として、自由エネルギー変換のメカニズムになっているのであり、細胞はまたこの自由エネルギー変換過程(蛋白質の作用ネットワーク、生物学的仕事の統合、生命サイクルなどの時空秩序)そのものになっているのである。細胞は死んだ実体ではなく生きているのであるから、単なる物ではなく、物の移り変わる過程なのである。

生態系(食物網)にしても、一つの自由エネルギー変換過程として、時空的に変化しつつある過程である。食物網は、自由エネルギー変換を定常化するメカニズムを提供するが、同時にそれはこの変換過程(時空秩序)そのものであることは、もう容易にわかるだろう。

動的秩序は動的秩序をつくるメカニズムであり、
その過程(動的秩序を作る過程)そのもの(動的秩序)である。
したがって、
すべての動的秩序は自発的な秩序形成であり、動的秩序の自己更新である。

生命とは何か

生命サイクルとしての生物

このように三つの動的秩序は、動的秩序という一点において基本的に共通している。だが、動的秩序のメカニズムは、定常的な自由エネルギー変換を保証するという一点を除き、すべて異なっている。

それぞれの動的秩序を構成する物質的組成が異なっていることは明白であるが、ここで大切なことは、過程(時空秩序の変遷)を引き起こす要因が基本的に異なっているという点である。生物だけが、生命サイクルという目的律的過程なのである。特に、生態系には目的がないということ、生態系がさまざまな生物の「利己的な」参画であり、それを制限するのが自由エネルギー流速の限界と生物間の競争であることには再度注意したい。

生物は生命サイクルであり、したがって、生物(細胞または多細胞個体)にのみ作用する自然法則の自然淘汰原理にしたがう。物質または物質系が互いに異質であるとき、それぞれに必ず独自の自然法則が支配する。生物を特徴づける自然法則は自然淘汰原理であり、そのためにこそ環境適応という生物に独自の過程も存在することになる。

ブリュッセレータも生態系も環境変動には復元力でもって応答する。ブリュッセレータはリミットサイクル振動であるから、ちょっとした攪乱であればもとのリズムに戻る。生態系の復元は、個々の生物の生命サイクル実現(個体数変動)によるものだ。

    生物と生命

    ここで、生物と生命という言葉について若干の反省を行ってみよう。

    生物という言葉は、構造を重視したときの用語であり、生命の「入れ物」と感ずる人々もいるだろう。これに対し、生命は機能的側面を重視するときに用いられることが多い。だが、いままで再三見てきたように、構造と機能は一体のものである。細胞構造は、構造(空間秩序)として機能を発揮するのであり、また逆に細胞機能も空間的に構造化されているのであった。このことは、もちろん多細胞個体についても同様である。男の機能と女の機能は一つにそれぞれの外部形態によってもたらされることは言うまでもないだろう。もちろん、ひとが直立二足歩行するというひとにとっての基本機能は、ひとの骨格構造によるものである。

    動的秩序に関する先のまとめを思いだそう。動的秩序は時空パターン(構造)であり、かつこのパターンそのものによって自己(動的秩序)をつくりだす機能(メカニズム)なのである。

    構造を離れた機能はないし、機能を離れた構造はない。構造と機能がこのように不可分な統合である以上、生物と生命という用語の区別も不自然なものとならざるを得ない。構造と機能が相対的にせよ独立であるなら、異なる用語を当ててもよいが、生物の構造は単なる入れ物や反応の場(空間)ではなく、機能する実体なのである。

    ただし、生物と生命は習慣的にも区別されて用いられてきたし、ひとによる認識の分析的特徴からすれば、構造を重視するときに生物、機能を重視するときに生命という使い分けを行うのもやむを得ないかも知れない。

    これに対し、例えば家屋の構造などは、構造それ自身に機能があるわけではないことに注意しよう。住人が利用して初めて機能的な構造になる。つまり、家屋の構造にとって、その機能は外的に付与されたもので、構造に内在する固有な属性ではない。

    いずれにせよ、生物の場合には、構造と機能は一体であり、したがって生命との区別はひとの分析的認識の限界を反映しているに過ぎないことに注意して欲しい。

    生物が生命活動を行っているという表現は、生物と生命を区別したときのいいまわしである。だが、生命活動を行わない生物などいない。生命活動を行っている過程(つまり生命)そのものでしか生物はあり得ないのである。

瞬間としての生命と生命サイクルとしての生命

これについても、ひとの分析的認識の限界を既に指摘しておいた。われわれは、時間の連続を統合的に認識するのはすこぶる苦手であり、この統合の時間的切断に囚われやすい性向をもっている。

だが、生命の時空秩序における重層的構造を統合し、生命を動かしている実体は生命サイクルである。生命サイクルは、生命現象(構造と機能の統合、時空秩序)すべての位相進行であり、単なる時間の不可逆的進行ではない。外部形態から内部構造、生理、生態、行動のすべてが一体となってリズミカルに変転していく過程である。そして、なによりもそれは予め遺伝的にプログラムされた計画にしたがって進行していく目的律的な過程である。目的はよりよい自己増殖であった。

生命はまた、生命を動かす本源的な力と同義に用いられることが多いが、これは基本的に正しい。生命は動的秩序であるから、生命を動かす力は動的秩序つまり生命そのものにあるからである。

では生命はどこにあるか?これは伝統的な疑問ではあるが、この発問は正しくない。死んだ肉体に生命を吹き込む、という二元論的発想であるからだ。肉体と生命は一体である。生物そのものが生命であり、生命サイクルであり、その全体的統合(重層的な時空秩序)のダメージは、生命の破壊である。したがって、生命は生物体の全体的統合、生物体そのものであり、特定の部域や機能に局在するわけではない。しかし、この統合において不可欠な部分と比較的に重要でない部分の比重の違いはある。

単細胞の緑藻カサノリは核を除去しても、細胞質にmRNAが蓄積しているためにしばらく「生命」活動を続けることができる。だが、生命サイクルを完結することはできない。単細胞生物における核除去は動物における去勢に該当する。一方、昆虫にしても脊椎動物にしても、脳のダメージは致命的である。生物(個体)としての統合に脳が不可欠であること、そしてこの統合における乱れが、生物としての破壊につながることは誰もが知っている。

    種の生命

    生命とは生物のこと(生命サイクル)に他ならないのであるから、種がこの意味での生命でないことは明らかである。また、種は、種個体群として、定常的に自由エネルギー変換を行うから、種が動的秩序であることも明らかである。

    種の生命という概念は、例えば今西錦司による「種の調和」概念と結びつく。「種の調和」は、人間社会における全体主義からのアナロジーである:個人は社会のために奉仕する。個人と社会との関係に関する生物学は第二部の課題であるので、ここでは簡単にすませておこう。個人が社会のために奉仕するとき、そのひとの人生は目的律的過程である。だが、この目的は意識(脳)のなかの目的であるから、この目的は個人に帰属する。仮に、、すべての個人がこの目的を持っていたとしても、それが種に帰属するということの証明にはならないことに注意しよう。意識や脳はあくまで個人の属性であるからだ。

    現実には、この仮定(すべての個人がその目的を持つ)さえ成り立たない。一般に群れ生活を営む動物は、群れからの恩恵も受けるし、個体として利益を得たいという矛盾対立のなかにあるから、「個人は社会のために奉仕する」という一面的な意識は、特別な洗脳を受けた場合を除いてもちえないのである。

    善悪や美醜の対立こそ、群れ生活者の意識の本質なのであって、悪を行うことに恥じらいをもつひとを善人、善を捨てることに恥を感じないひとを悪人というのである。完璧な善人や完璧な悪人というのは、特殊なミュータントが特殊な環境に育つという、二つの偶然が起こらない限り、存在し得ないというべきであろう。つまり、「種の調和」概念は一つのイデオロギーなのだ。

    種は動的秩序であるから、盛衰を繰り返しながら変化していく。それは、その属する生態系における実現ニッチの盛衰に対応するものである。盛衰を繰り返すこの実現ニッチを占有するのは、その種のなかの最適者の子孫である。種の個々のメンバーはただひたすら自己の生命サイクルを実現しようとする。その結果、最もうまく実現したものの子孫だけが実現ニッチに納まることになるわけだ。

    種の動的秩序を統合する原理は、一方で実現ニッチという限られた生態環境であり、もう一方で種内の関係や、物理的環境に対する適応を巡る、個々のメンバーの生命サイクル同士の競合と共存である。個々のメンバーは、種にとって不可欠な存在ではなく、相互依存的に統合されるのではない。この点は、生態系の統合原理と基本的に類似しているが、生物(生命サイクル)の統合とは本質的に異なっている。生き残ったものだけが種なのである。

    したがって、種族維持とか種存続の本能という概念は、今のところ何の実体もない概念、つまり誤謬である。種そのものは、定常的な自由エネルギー変換系(動的秩序)として実在する。しかし、種には全体的目的とかプログラムとかはない。

生命とは何か

生命は、遺伝的なプログラムとして進行する生命サイクルである。
生命サイクルは目的律的過程であり、重層的な時空秩序である。
生命サイクルのリズムを描いて変化していく時空秩序として生物をとらえるなら、生命すなわち生物である。
生命サイクルは生物に共通する時空秩序(過程)であり、生命サイクルを動かす力そのもの(メカニズム)である。これは、生態系や種個体群或いはブリュッセレータなど、他の動的秩序には見られない、生命を特徴づける過程である。したがって、遺伝的なプログラムとして進行する生命サイクルが生命の本質である。

しかし、既に最初に注意しておいたように、どのような普遍性や本質も、普遍一般という形では存在し得ない抽象的な実体で、実在しない。人間一般は抽象的概念として頭のなかにのみ存在する仮象である。生命一般も抽象的概念で、生命は常に具体的な生命サイクルとしてしか存在しない

具体的な生命サイクルを規定する要因は第一に遺伝的プログラムである。ここに生命サイクルを実現する具体的な方法に関するプログラム:蛋白質の作用ネットワークの時空秩序を、環境適応的に変化させることを通じて、生命サイクルとして位相進行させるためのプログラム:したがって種としての属性に関するすべてのプログラムが蓄えられている。しかも、各個体はミュータントであり、種としてのプログラムの一つ一つに生命サイクル毎のバリエーションがあって個性的である。

もう一つの要因は環境の具体性である。環境適応に関する遺伝的プログラムは生命サイクルとして用意してあるが、現実にどのような環境に遭遇するかはその生命サイクルにとっては未知であり偶然であり外的である。食物網(または生態系)や種個体群が時空秩序として変化していく過程は、個々の生命サイクルにとっては外的偶然性である。また、食物網でどのような実現ニッチを占有し、種内でどのような個体と遭遇しどのような関係を結ぶのか、ある特定の生命サイクル(個体)が遭遇する局地的環境は個体毎に異なっている。

こうして、生物は、種内と種間の他個体との相互作用と物理的環境との関係を通じて(すなわち局地的環境との関係を通じて)、具体的な生命サイクルを実現している実体であるから、一つとして同一のものはない。

生命は、局地的環境と具体的な関係を結びながら実現する生命サイクルである。これは遺伝的プログラムに予定された過程であり、種個体として遺伝的に唯一である。同時に、遭遇する局地的環境の唯一性からしても、生命サイクルは唯一の生命サイクルとして実在する。
生命は、固有の遺伝的プログラムにしたがって、局地的環境との具体的な関係を結びながら実現する唯一の生命サイクルである。
生命は、固有の遺伝的プログラムにしたがって、環境適応しつつ実現する唯一の生命サイクルである。

生命とは何か(もう一つの概観)


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