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97年度生物学概論第1講 10/6/97 (97年度導入科目「生物物理学」(後半)のまとめ)より 定常的な自由エネルギー変換と不安定性: 動的秩序は、外界の自由エネルギーを消費して、仕事に変換し、熱と老廃物を排出する物質系である。周囲よりも高い自由エネルギー状態を保つという点で、或いは自由エネルギー変換を絶えず行わなければならないという点で、動的秩序は本質的に不安定である(熱力学の第二法則)。つまり、動的秩序は常に崩壊の危機にさらされている。
時間と空間の統一性(構造と機能の同一性): 動的秩序は、エネルギー変換装置(変換メカニズム)が間断なく働くことによって、エネルギー変換装置(変換メカニズム)そのものが維持・形成される物質系、すなわち自己組織化現象を示す物質系である。
動的秩序の具体例:
人間関係の重層的ネットワークという人間社会総体としての構造は、この構造そのものを維持し形作っている。つまり、社会構造と社会機能は同一のものである。構造と機能という二つの言葉を用いて、両者を区別するのは思考の分析的本性のせいに他ならない。知的イメージとしては構造と機能という二つの別個の抽象概念を「錯覚」することができるが、構造と機能が現実に別個の実在として存在するわけではない。 われわれは、人間関係の重層的ネットワークの時間断面(静止状態)(静止的空間構造)を捉えて社会構造という抽象概念を用意する一方、そのネットワークの時間的連続性に対して社会機能という抽象概念を当てているのである。しかし、静止的ネットワーク(抽象イメージとしての社会構造)が一瞬たりとも(頭脳の外には)存在し得ないことは明白である。 生態系 個々の大小生態系や全体としての地球生態系は、それぞれ一つの動的秩序である。生態系の絶えざるエネルギー変換は、縦横に張り巡らされた食物連鎖のネットワーク活動(食物網)であるが、このネットワーク活動(捕食ー被食関係の総体つまり食物網)によってネットワーク活動(食物網)自体が維持・形成されている。このエネルギー変換の中心は、植物、藻類、シアノバクテリアなどの生産者による太陽エネルギーの捕捉活動である。食物網という構造は、食物連鎖関係の総体、つまりエネルギー変換活動(機能)そのものであり、この構造(食物網)を支える力そのものである。 細胞生命全く同じように、細胞生命も一つの動的秩序である。例えば、ユーグレナ(ミドリムシ)の生命活動は、外部自由エネルギー(太陽エネルギー)をユーグレナの維持と形成のために絶えず消費することなくして成立しない。ユーグレナの構造は、単なる空間的な(顕微鏡によって観察されるところの)内部形態や外部形態のことではなく、ユーグレナを構成する各種分子(その中心は蛋白質)の機能的関係の総体、すなわち蛋白質作用のネットワークのことである。このネットワークは、生体膜構造のように、顕微鏡によって可視化される形態として活動している部分もあれば、細胞質に溶け込んで(可視化される形態をつくらずに)活動している部分もあるが、その総合的作用そのもの(蛋白質作用のネットワーク)がユーグレナという一個の生命の構造になっているのである。こうして、
と表現してよい。 食物網の構成因子は個々の様々な生物種の個体群であるが、細胞生命(例えばユーグレナ)の構成因子は各種類の蛋白質(群)である。個体群作用(捕食ー被食作用)のネットワークが食物網の構造であるが、解糖系酵素群、呼吸系酵素群、遺伝子発現系酵素群、、、等々の絡み合った相互作用の総体、すなわちタンパク質作用のネットワークが細胞生命の構造となっているのである。人間社会が大小組織(家族や学校等々)の包含的構造を含んでいるのと同じように、細胞生命も、原形質膜やミトコンドリア、葉緑体、リボゾーム、、、といった下部構造(生命より低次のネットワーク)間の重層的ネットワークである。 ブリュッセレータ 最も単純な動的秩序である。 非線形開放系であることが必要条件であるが、速度論的な各種の条件が動的秩序を形成するためには必要である。 生命は物理法則に従う。物理法則(より一般的には自然法則)に違反することは、自然界では起こり得ない。しかし、生命は他の動的秩序と異なる特性を持つことによって「生命」と呼ばれるのである。 生命が他の動的秩序と異なる点は、生命における動的秩序が生命サイクルである、という点にある。すなわち、
直前の位相によって作られ、直後の位相を準備するものとしてのみ存在する。 言い換えると、 或いは、 といっても良い。
同一種内の生命は互いに生活資源(生活要求)を共有するし、生活資源は有限である。このため、種は繁殖成功度のより高い生命の子孫によって占められるようになる。これが、自然淘汰による種内進化である。明らかに、自然淘汰という自然法則は、生命サイクルに固有のものであり、したがって、生命サイクルの歴史的出現とともに誕生したはずである。こうして、
生命サイクル過程(生命サイクルとしての動的時空秩序)である、 と規定できる。
ただし、これは、あくまでも生命に関する本質規定であり、生命の具体像そのものではない。実際の生命は、唯一無二の個別的で具体的な生命である。こうした個別性や具体性を捨象した時、すべての生命に共通し、かつすべての生命を支配する法則として抽出される特徴が、前述の本質規定であり、それ自体としては(抽象的な形態としては)生命自身に内在するものではなく、われわれの頭脳における思考イメージとしてのみ存在するものである。
科学は自然の真実を明らかにしようとする学問である。 科学は自然の全貌を明らかにすることはできない:自然の神秘(謎)は、科学がどのように発展しても汲み尽くされることはない。科学は偶然の内容を予測することができないからである。
科学は分析的認識である:科学における総合もまた分析の一形態である(科学は、言葉と数学を使わずには成り立たない):物事の一側面を深く認識するには適しているし、そうした個々の側面を分析的に結合(総合)することはできるが、直感的ではない。 生命と生物という言葉があるように、われわれは、ものとそのものを動かす力を区別する性癖がある。しかし、生命(という力)が生物(という体)を動かしているのではない。生物(という体)の全体が生命(という力)そのものなのであることに注意しよう。 この関係は、動的秩序の特性である。 科学は、自然を動かす本質的法則を抽出する。しかし、本質的法則のなかには、「偶然の力」が関係している場合がある。例えば、突然変異がいつ、どのような塩基にどのように起こるかは、塩基を取り巻く熱的エネルギーの揺らぎによる「誤り」である:突然変異の内容は偶然の力に委ねられている。
受精卵の超人為性と「かけがえのない命」 科学は主観的価値観や主観的印象を排除することによって成立する認識である。これに対し、詩的印象は、個人の喜怒哀楽と結びついた個人的印象であり、科学的真実であることを要求されない。価値観も全く同様であるが、この場合には社会的文化規範または社会的慣行が価値観に大きく影響する。 「かけがえのない命」は価値観であるが、私がこれを「超人為性」という自然法則と結び付けたひとつの理由は、「かけがえのない命」という価値観が人間社会における単なる約束事ではないのではないか、と考えたからである。 超人為性、唯一無二性という基準をとると、すべての性的生物は対等である:これは科学的認識に属する。したがって、またすべての個人はそれぞれ「かけがえのない命」をもつ:これは、微妙であるが、一応科学的認識に属するといえるだろう。しかし、すべての個人が「かけがえのない命」として処遇されなければならない、という認識は価値判断である。 全く同じように、すべての性的生物を平等に扱わなければならないという判断は、価値観の領域に属する。 人間も食物連鎖網の一環に組み込まれているのだから、天敵から防衛し、競争種と対抗して、餌を食うことを免れるわけにはいかない:さもなくば絶滅するだけである:これも科学的認識に属するが、現実に天敵から防衛したり餌を食う行動に出るのは、(無意識的ではあるにせよ)価値判断を伴った行為である。 すべての生物は超人為性という基準の上で対等であるし、食物連鎖網の一環に組み込まれているという点でも対等である。そして、各々の種は、各々の種のもつ能力の許す範囲内で生命活動を営んできた、という点でも人間と異なることはない。 価値判断を排除することによって科学が成立するのに対し、
例えば、クローン技術によって誕生した子とその「親」の関係は一卵性双生児と異なることはない、という認識が誤りであることは、科学をもちだすまでもなく常識的に自明のことだ。だが、こうした誤謬がまかり通れば、クローン人間作成も悪くはないね、という誤った価値判断につながってしまう。 地球生態系の視点から、人間が他の生物と異なるのは、人間だけが技術を作り出し、技術に絶対的に依存した生活を送る、という点にある。技術は累積的であり進歩的であるから、人間社会による環境破壊は歴史とともに増大する。しかも、技術は社会的存在であるから、一人歩きする性格(人間社会による意図を離れる性格)も持つ。技術がなければ、チンパンジーと似たような生活を送ることになる。言い換えると、人間も他の生物と本質的にやっていることは同じである:やりたいことをやっている。ただ、人間はやりたいことが多すぎるのか大きすぎるし、それを実現するための技術力をもっている。 技術は人間に快楽を与えるとともに、人間自身を含め、自然を破壊する側面をもつ:より客観的に表現すれば、自然の流れを変える働きをもつ。 しかし、人間は技術をセーブする力をもたないし、技術の及ぼす歴史社会的効果を予測することはできない。つまり、技術の責任を負う力量は人間社会にはない:これは科学的認識である。だが、人間は技術に絶対的に依存する動物だから、人間社会として技術進歩の方向を制御しなければならない。この制御のわかりやすい例は、核兵器の全廃運動であろう。日常的な技術(車や家電製品)に対しては、現状では消費行動のみが制御する力をもっているが、消費者の行動原理が「快楽」である限り、技術の及ぼす歴史社会的効果の未来は暗い。
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