生命の神秘
生命の神秘という言葉は二通りに用いられています。一つは、生物学が解き明かす生命の巧妙なしくみに対する驚きと賛嘆を表す場合です。もう一つは、神聖不可侵な存在としての生命に対する畏怖の念を表す場合です。この二つの神秘性は、生命に限らず、森羅万象の自然にも当てはまります。
偶然と必然
科学は、自然の法則性を発見する学問です。自然は、必然と偶然が絡み合っています。例えば、人間が男女の愛情過程によって誕生する、という事実はごくありふれた自然の必然的法則に属します。しかし、どの男とどの女が巡り合うかということは、運命的巡り合いという表現があるように、自然の偶然的法則に属します。同じように、精子と卵子による受精は必然的法則ですが、どの精子とどの卵子が現実に受精するかということは、偶然に支配されています。更に、実際に受精卵として生まれ変わることに成功した精子と卵子が、減数分裂の過程で遺伝子組換えを行う、ということは必然的ですが、実際にどのような組換えが起るのかは、これまた偶然的法則なのです。
一方、先天的不妊症(生得的不妊症)は、ゲノムの欠陥に基づく場合がありますが、このゲノム欠陥は遺伝的(次代に伝わること)ではありえません。なぜなら、不妊症なのですから。したがって、先天的な不妊にかかりやすいゲノムをもった人々の繁殖成功度はゼロに近い、といえるでしょう。ところが、その人々の繁殖成功度は、人工生殖技術が普及した社会では顕著に増大することになります。どのような社会に生きるか、その人々にとって全く偶然です。
科学の限界と生命の神秘
このように、自然(森羅万象)の必然性は内的偶然性を伴ってのみ現象するものであるために、科学が自然の未来を完全に予知する時代は決して訪れません。
ただし、科学が現代技術に大きく貢献している事実と、人間が現代技術を「人類の幸福」のために使う能力をもたないという事実をあわせれば、科学に対する無制限の容認と援助は差し控えるべきかもしれません。
しかしなお、この「制限」を行う人々の識見が完璧ではないし、正しくない可能性も強い、というのが現代社会の特徴でもありますから、科学に対する制限は危険である、といえましょう。
いずれにせよ、人類は身に余る巨大なテクノロジーを手にしてしまいました。