広告の倫理学-クルマとポルノの場合

02年11月5日、千葉大学、情報倫理研究会
(PPはパワーポイントの図版を指す。ここでは省略)

司会

 それでは杉田さんから発表いただきたいと思います。杉田さんの題は、「広告の倫理―とくにクルマとポルノの場合」で頂いております。ではよろしくお願い致します。

杉田

 帯広畜産大学の杉田と申します。前の大理論のようなお話を聞きますと、今日の私の話は卑小な感じもしますが、この間ずっと関心を持っているテーマだということもありますので、しばらくお時間をいただきたいと思います。
「広告の倫理学」というのはちょっと大袈裟です(PP1)。いくらかでもこの研究会の関心と切り結べばと思いましたが、あまり期待できないかもしれません。非常に癖のあるテーマですが、私が最近ずっと考えてきた事柄を広告の問題と多少は関係させながらお話ししたいと思います。とはいえ、お話しすることは、私がいま何としてもやりたいと思っている実践的な事柄の基礎にある理論的な問題だとご理解ください。

クルマ広告から

 さきごろ、こんな新聞記事を見ました(PP2)。アメリカのタバコ被害健康訴訟についての記事です。アメリカでは何千という、タバコ被害を訴える訴訟が起こされていますが、驚くなかれ、三兆円の賠償金を命じる判決が出たという記事です。フィリップ・モリスというタバコ会社があります。17歳のときから喫煙を始め、63歳になったときに肺がんと診断されたある女性が、フィリップ・モリスに対して喫煙の危険を十分に知らせなかったということで、会社側に過失があると主張していました(PP3)。9月の末頃とだと思いますが、85万ドルの「損害賠償」がフィリップ・モリスに命じられる判決が出ましたが、つぎの週に、いわゆる「懲罰的な賠償」を科すという上の判決が出ました。日本ではこの法理は普及していませんが、アメリカの場合には加害者に対する懲罰、あるいはもっと一般的な社会的抑止を狙って、「懲罰的賠償」なるものを認める傾向があるようです。とくにアメリカは陪審裁判の国だということもあり、市民の側に、こうした訴えを何とか認めて、タバコのような有害なものは排除しようという傾向があるようです。とはいえ、タバコの喫煙を一般市民が否定しているわけではなく、むしろそれは自由意志に任せるべきだという考えのようですが、それにしても裁判所が、「懲罰的賠償」を科す必要を認めて、280億ドルの支払いをタバコ会社に命じたというのです。日本円にすると、3兆4500億円です。とんでもない数字ですが、この数字をご記憶になってください。あとで私が計算する別の数値と似てきますので、ご記憶になってください。ともあれ先ごろ、こういった判断が下されました。アメリカの陪審員制度の問題や、タバコに関する多少ヒステリックな反応ということで、いろいろ問題がありうると思いますが、ひとつの導入として紹介させていただきました。

問 題

 翻って、私にとって問題なのは、クルマの危険というものは十分に知らされているだろうか、ということです(PP4)。あとでお話ししますように、十分に知られてはいますが、しかしそれ知らされているか、ということを広告との関わりで問題にしたいのです。それから――こちらにどうしても力が入ってしまいますので、後半にどれくらいお話できるかどうか分かりませんが――ポルノグラフィーの問題も扱いたい。ポルノグラフィーの流通もまたほとんど疑われていないように見えますが、それに問題はないのだろうか、ということです。ある種の「危険」が認知されないまま、とくに若い人たちがポルノに大規模に暴露されていないか。「暴露」というのは、接触させられてしまうという意味です。「暴露」という言葉の通常のニュアンスとは違いますが、この言葉で表現します。若い人たちがポルノに大規模に暴露されている、さらされている現状がないだろうか。その危険が十分に認知されていないままになっているのではないか。その点をすこし問題にしたいと思います。そして広告との絡みで何ができるだろうか。私はもちろん、個人的なことで言いますと、現在、クルマおよびポルノに関して、少なくとも危険を知らせる広告がないので、その広告の掲載を求めながら同じに懲罰的賠償を請求したいという志があります。とはいえ、私が被害者ではないケースでは、たとえばクルマの場合では、私自身が賠償請求裁判を起こすことはできませんが、それを起こせるような理論活動をしておきたいという志があります。ちなみに言いますと、私はもともとカント研究者ですが、最近10年くらいはクルマの問題とポルノの問題に、関わっています。

文 献

 今日私はお話しをさせていただきますが、こんな本を書いていますので(PP5)、もしご関心を持たれましたら、お読みになっていただければ話を補っていただけるのではないかと思います。『クルマを捨てて歩く!』(講談社+α新書)という題で、これはクルマ社会に対する批判というより、クルマを捨てて歩くのが楽しい、ということを書いた本です。ポルノに関しては、『男権主義的セクシュアリティ』(青木書店)という本を書いておりますので、もし読んでいただければ、今日の拙い話を補っていただけると思います。

第1部 クルマ広告の場合

  前半は題を「クルマ広告の場合」としましたが(PP6)、最初に実際のクルマ広告をみなさんに見ていただきたいと思います。これは10月20日付けの朝日新聞に出ていたトヨタの広告です(PP7)。日付にはとくに意味がありません。たまたま10月20日前後に見てみたら、たくさん載っていました。とくにこれが典型的と言えるかどうかを分析したことはありませんが、比較的典型的なのではないかと思います。男らしさのイメージと都市的なイメージを結びつけた広告ですが、一番上の部分を拡大すると、こう書いてあります。「Drive Your Dreams」(PP8)。テレビでも宣伝されていますので、このロゴはお聞きになったことがあると思います。そのあとには「ひと、社会、地球の新しい未来へ」と書かれています。巧みに自動車を売りこもうという戦略です。もちろん、自動車というものが、結局廃棄物を出すということをどうしても認めざるをえない。自動車会社側は、ボルボのコマーシャル以来、エコロジー的なものを取り入れ、環境にやさしいというコンセプトをつくることで、クルマを売りこもうという戦略をとっていますが、この広告もこれ以上の意味はないのです。それにしても、これは新しいブラックユーモアに思われます。「ひと、社会、地球」にやさしい、というイメージをかもし出しているわけですね。まあ、これはイメージ広告ですから、事実とあっているかどうかということとはまったく関係がありません。それにしても、私たちの自動車に対する欲求が、こうしたイメージ広告によって顕著に形作られていると思います。消費社会ですから、もちろんこうした欲求が自動的に形作られるわけですが、自動車の場合には巧みですね。私は現在のいろいろな広告・コマーシャルを見ていて、非常に大きな影響力を持っているのは自動車と化粧品の場合だと思っていますが、自動車広告の洗脳力はかなりのものだと思います。それはまさしく圧倒的多数の人がクルマを持ちたがるという事実によって理解できると思います。
 別の例をお見せします。たとえばホンダ(PP9)。こちらの広告はすこし雰囲気が違います。田舎の雰囲気を利用して、楽しい家庭の団欒という雰囲気を男女の関係によって示しており、緑と暖色形の色を使うことによってのどかな郊外の生活と結びつけるわけですね。もちろんこれも、クルマとはなんの関係もないイメージ広告にすぎませんが、やはり巧みなやり方をしていて、「The Power of Dreams」と書いてあります(PP10)。ここでも「夢」という言葉を使っています。さきほどのトヨタの広告とその点では似ています。
 こちらは日産ですが(PP11)、同じく自然の豊かさを強調して、クルマがあれば豊かさを享受できるという――私に言わせれば一種のパラドックスですが――、そういう雰囲気を顕著に醸し出しています。標語は「SHIFT_the Future」(PP12)ということで、こちらは「未来」を強調しています。
 けっきょく、未来、環境、田舎の生活、夢。そういった言葉で欲求をあやつるという手口であります。
なかにはもちろん、機能的なものをあくまで追求した広告もあります(PP12)。これもホンダですが、新しいクルマの何を追及しているかというと、カーナビのシステムが充実しているということで(PP13)、商品の目玉としているわけです。ディーラーの広告ですから、いくらくらいの価格でということも含めて、こんなものまで書いてあります(PP15)。 
もうひとつだけお見せします(PP16)。これは顕著な例とは申し上げられませんが、トヨタが「エコプロジェクト」と呼んでいるものの一環で、環境にやさしいクルマだという振れ込みです。「プリウス」をはじめとするクルマの一種のようですが、「超低排出ガス」と書いてあって、「環境に配慮した」のだそうで、多少エコロジカルな意識をもった人も取りこむような戦略をとっているわけであります。

タバコの警告表示

 私はタバコを吸いませんので、タバコのパッケージを直接写真にとってくることはできませんでしたが、山手線に乗っていたら、「アコースティック」という銘柄のタバコの宣伝に目が止まりました。そこには、こんなふうに書いてありました(PP17)。これはタバコの場合、一般的な警告表示だと思いますが、「未成年者の喫煙は禁止されています。あなたの健康を損なう恐れがありますので、吸いすぎに注意しましょう」。おまけに、「喫煙のマナーを守りましょう」とか「タバコは喫煙コーナーで」ということまで書いてありました。オーストリアに行った人の話を聞きますと、あちらでは「妊産婦の方は、タバコによって奇形児が生まれる恐れがありますので云々」と、かなり具体的なことまで法律で決めて表示しているようです。タバコに関してはずいぶんと啓発されてきて、こういう傾向が世界中で一般的になっているようです。日本の場合はよく知りませんが、アメリカの場合には法律によって類似した警告表示の掲載を義務付けています。

では自動車は?

 ところで自動車は、タバコと同じくらい、ある意味ではタバコよりずっと社会にとって危険なものではないのか、ということをしばらく問題にしたいと思います。これが、もちろん今日の私のテーマです。つまり、クルマの広告はいまご覧になったとおりですが、これらにおいては、クルマという商品が持っている本質的な危険性というものが、知らされていないのです。まったくといっていいほど知らされていません。しかし、日々に起こる事故の状況を見ても分かるように、クルマは非常に事故を起こしやすい道具です。実際、クルマによる犠牲者の数はおびただしいものがあり、ご承知のように、昨年度はすでに事故数は100万件を越しています。負傷者は80万人を超えていて、死者は――警察統計は取り方に問題がありますから実数で言えば――1万4000人くらいになります。クルマのために、それだけの死者が出るのです。しかし考えてみればこの事実は異常なことであって、例えば私たちがふだん使っている電化製品が何らかの事情で人を巻き込む事故を起こし、年間1万人から死ぬということがあれば、とんでもない問題になることは明らかだと思うのです。危険性があるとすれば、運動エネルギーを発生させるか、熱エネルギーを発生させるときだろうと思いますが、電化製品のなかで運動エネルギーを発生させるものはけっこうあります。たとえば洗濯機。けれども洗濯機は移動するわけではありませんから、なかに手をいれなければさほど危険はありません。移動しつつ運動エネルギーを発揮させる典型的なものといえば掃除機だと思いますが、掃除機はふつう家のなかで使うものですし、かつ発揮する運動エネルギーもたいしたことはありませんので、結局のところそれで人がケガをしたり死んだりということは、ほとんどないわけです。ところが、自動車という道具だけは例外中の例外で、使用場所は家の外である。なおかつ、後でお話しするように、それが出す運動エネルギーはきわめて巨大です。そのため、先ほど述べたように、80万という人たちがケガをし(統計に載らない数字もありますから実際にはゆうに100万を越えていると思いますが)、死ぬ人も1万数千人に達するという、極めて異常なことが起きているわけですが、その異常さ自体が気づかれていないのが現状だろうと思います。

自動車事故は不可避

 私は以下、「クルマは非常に事故を起こしやすい道具である」ということをお話ししたいと思います。これが、先ほど申し上げました「本質的に危険である」ということの意味です。確率的に見て、タバコで肺がんになる率より高いかどうかについては計算方式を持っていませんが、それにしても、歩行者だけでも、クルマによって年間約5500人が死亡しております。ということは「阪神淡路大震災」が毎年起こるようなものです。歩行者の負傷者は年間20万人です。大変な数です。子どもだけで言っても、ジャンボジェットが毎年一台落ちるのと同じで、400から500人くらい死にます。子どもの負傷者は7万2000人。これらは、同乗中の事故によるものではなく、道を歩いていて、あるいは自転車に乗っていて巻き込まれた事故による被害です。
 これらの事例を見ても分かりますが、自動車会社こそ損害賠償を、さらには懲罰的な賠償を請求されてもよいのではないか、と私は思います。クルマという商品そのものに実のところ大きな欠陥があるのではないか、ということです。しかし、自動車のメーカーやディーラーも基本的にはこのことを消費者に知らせようとはいっさいしていません。さきほど見たように、自動車広告はクルマについての情緒的なイメージを打ち出したものであり、豊かな生活のイメージと幻想を振りまくだけであります。そこには、現実に自動車によって傷つけられたり、死に至らしめられる人々、あるいはクルマによって健康を侵される人(たとえば喘息になるとか、騒音によって睡眠障害に苦しんでいる人、お年寄り)、そういった人々の姿などはまったくないわけです。しかしもし本当に自動車という商品がそうした事故を起こしやすく、健康被害をもたらしやすい道具であるならば――私はそれは確実だと思います。これから前者を論証いたします――、その場合には、その事実をすくなくとも正確に消費者に伝えるべきではないのか、と思われてならないのです。実際のところ、消費者がこの商品を「誤って」使うために事故は起こるのだ、とメーカー側は言うはずなのですが、そうではなくて、あとで詳しくお話ししますが、仮に飲酒運転をしない、スピード違反をしない、無免許運転をしない――これはいわゆる交通三悪といわれているものです――、そういうことをいっさいしなかったとしても、日々に当たり前に事故は起こる。あるいは運転者がよそみ見運転だとか前方不注意だとか、そういうことをしない、つまり利用者の誤りという言い逃れをメーカー側はするわけですが、そういうことをいっさいしなかったとしても、やはり事故が起こるのです。そういった本質的な危険性、もしくは構造というものを、クルマは持っています。だからその点が消費者にちゃんと伝えられなければいけないと思うのです。とくに若い人たちにちゃんと伝えるべきだと思います。あるときに自動車のディーラーのところに行って話を聞いてみたことがあるのですが、まったく自動車の危険について話をしません。とくに、若い人なら、私たちの年代よりはるかにクルマをぶっとばしたくなるという、やむをえない部分があると思うのですが、しかし若い人が、そのようにスピードを出し、自動車の危険性がいっさい知らされてないまま利用して事故を起こし、結局のところ最大の被害者になっているのではないか。20歳から30歳で言えば、死亡者のうち自動車によるものは50%です。その年齢層のひとたちの死ぬ理由はいろいろありますが、5割以上は自動車によって死にます。そういった事実を、自動車の本質的な危険性というものを、そうした年齢層の人達に本当に知らせなくてよいのだろうか、ということなのです。とうぜんのことながら、タバコ以上に知らせる必要があると私は申し上げたいのです。

自動車の本質的な危険性

 そんな話をしていますと長くなりますから、自動車の本質的な危険性について具体的にお話ししたいと思います。
 自動車事故は不可避的に起こります(PP18)。これは、誰が乗って必ず事故を起こすという意味ではありません。そうではなくて、自動車が何千万台と日本には走っておりますが、それらの事故は多かれ少なかれなくすことはできないというのが、私の言おうとしていることです。その基本的な理由は、第一に、クルマの機械特性に関係します。自動車はレールを持っていないから非常に便利なわけですが、しかしレールを持っていないために非常に不安定な道具なのです。そして当然のことながら、社会的なシステムの問題があります。その不安定な機械をだれが運転するか。それは基本的には素人であります。素人というのはどういうことかと言えば、たとえば私がこの話を終えてから、夜、運転免許を取りにいこうかとなったとき、3時間ばかりの教習を受けることができますが、一ヵ月あれば免許がとれてしまうのです。たった一ヵ月で、です。じつのところレールがないために非常に不安定な道具であるクルマを、たった一ヵ月の訓練で運転できるということは異常なことなのですが、そのことはたとえば電車を考えてみれば分かると思います。私たちが安心して電車に乗っていられる最大の理由は、その運転手は最低でも8ヶ月以上の専門的な教習をうけている、専門的な運転者であるということが関係すると同時に、もうひとつは、電車とにはレールがあるということなのです。レールがあるから、極端な場合には運転者が寝ていたとしても、脱線することがありません。もちろん実際には公共機関ですから、前にも後ろにも電車が走っていますので、実際に運転者が寝ていたら車両がぶつかりますが、それでも一定程度相互の関係が調整されるようなシステムもあるわけです。つまり信号がまずあって、しかもそれぞれ管理者がいるわけです。「自動運転停止装置」というものまであります。ある場所を越えて間違って走っているときに、あるいは必要以上の速度を出して走っているときに、車両を自動的に止めるシステムがあるのです。それはレールのおかげなのです。レールを通して電気を流すことによって自動的に電車を止めることができる、そういう装置さえあるために、電車というのは非常に安全な乗り物です。そして今言ったように、運転者は完全なプロですね。朝はキオスクで売り子をしていて、昼間は切符を売っていて、夜は駅舎内を掃除している、というようなことはまったくありません。この人は完全に運転士とし企業に雇われて訓練を受け、8ヶ月間練習をして、そのあと実際に運転し始めますが、必ず最初は2人、ないし3人体制で運転をして、日々に訓練をしながらさらに専門的な運転者となっていくのです。ところがクルマの場合は、これと完全に違います。運転者は、せいぜい一ヵ月あればとれてしまう免許を持っているだけです。またふつう、例えば職場や学校に通う際に、片手間に運転するだけです。たった一日3時間で1ヶ月もあれば免許がとれてしまうわけですが、免許取得後も運転者は仕事や勉強の合間に片手間に運転するだけなのです。そういう人が本当に運転のプロフェッショナルかと言えるでしょうか。そうではないと私は言いたいのです。機械特性としてクルマはレールを持たないために非常に不安定であること。社会的システム上、つまり制度上、素人が運転していること。そのために、事故は避けることができないのです。ある確率においてこれは絶対に避けることができません。日本でモータリゼーションが始ってからもう40年になります。その間、道路構造が悪かったものを直したりすることで若干の事故率の低下はありましたが、それでも基本的に事故がなくならないのは、以上ゆえであります。

相互関係を調整するシステムの不在

 以上は、たった一台のクルマが走った場合を念頭においていますが、ところが実際にはクルマはどうやって走っているかというと、何十台、何百台と走っているわけですね。前にも後ろにも右にも左にもたくさん走るのが現状です。テレビコマーシャルでは、広々とした空間をたった一台のクルマが走っているという光景を写していますが、そんなことはまったくと言ってよいほどありません。もちろんそういった場面に出合うこともあるかもしれまえせんが、基本的には、前後にたくさんのクルマが走っているなかを、走るわけです。それでいてそれらの車両相互の関係を十分に調整できるシステムが存在しません(PP19)。さきほど述べたように、電車の場合には――公共機関ですから――前後の関係は調整されています。左右の関係はレールによって完全に調整されています。だから250キロの新幹線が相互にすれ違っても、何もこわくありません。そういう相互の関係を調整するシステムが電車の場合には存在しますが、ところが自動車というのは私的に利用されるのが現状のルールであり、なおかつ相互の関係を調整するシステムがありません(PP19)。あるとしたらせいぜい、テールランプでブレーキを踏んだことを示すのと、右左折の意思表示をするくらいではないでしょうか。たったそれだけす。道路上には信号がありますから、ある方向のクルマ同士はある程度の調整はできますが、同じ方向のものについては調整することができません。だから、事故の不可避性ははるかに高まります。

巨大な運動エネルギー

 そしてもうひとつ、自動車は非常に強力な運動エネルギーをもって動いています。だから事故は多かれ少なかれ死傷事故になります(PP20)。自動車がもたらす運動エネルギーはどのくらいあるか。40キロで走っている場合には、私たちが高さ6メートルから落ちたのと同じ位の衝撃を受けます(PP21)。時速60キロだと高さ14メートルですね。この部屋は2階ですから高さはせいぜい5メートルくらいだと思いますが、14メートルということになると5階くらいの高さになります。100キロくらいだと14階、40メートルもの高さから飛び降りたのと同じです。クルマは、それだけの衝撃力を持って走っているわけですから、とうぜん、事故は多かれ少なかれ死傷事故になるのです。

対人事故も不可避

 ところで、対人事故もまた不可避なのです(PP22)。クルマは日常空間を走っているからです。列車にはレールがありますし、特別に管理され、他から隔離された空間で走ります。でもクルマはそうではなくて、日常空間を走っています。これはつげ義春さんが書いた漫画ですが(PP23)、もしこんなふうにうらぶれた寒村にこんな機関車が走ってきたとしたら異常であるということは、一目瞭然であると思うのですが、実はこの機関車を自動車に置き換えてみたら、これは今日の当たり前の光景であることがわかります。こうして自動車は、レールも何もないまま、通常の日常空間を、つまり人々が歩き、子どもが遊び、お年寄りが散歩するような空間を走るわけですが、それはちょうどこの絵と同様に、異常なことなのです。

日常空間の変貌

 もうちょっと具体的な場面をお見せします。これ(PP24)は埼玉県の私の実家のそばなのですが、人口7万人の小さな町です。道幅はそんなにありませんが、そこをこんな仕方でクルマが走ります。夕方5時前後の混んだ時間帯ですが、ふだんは、3台はさすがにムリでも2台くらいは平気ですれ違う。だから、歩行者はほとんど歩けないという状況です。ところでその道には誰がいるのか(PP25)。日常空間には、いま申し上げように人がおります。子どももいればお年よりもいます。これ(PP26)も私の実家のそばですが、こういうところはあたりまえで、お母さんが小さな子どもを連れて歩いていますが、壁にへばりつくように歩いていますね。これが日常的な道路の状況なのです。こちら(PP27)は埼玉県の川口です。女の子がヘルメットをかぶっています。すでにそれ自体異常ですが、クルマがこういうふうに走って、ほとんど隙間がないところを子どもが歩いて学校に通わなければなりません。この子(PP28)も同じ道を歩いていますが、傘をさすとほとんどクルマに接触してしまう。非常に危険です。こういうところを、傘を差しながら、時々は傘を閉じながら歩くわけです。この子たち(PP29)の場合には、歩道があってガードレールがありますからまだしもですが、子どもたちが歩いているそのそばをこれだけの巨大なクルマが走るというのが、日本のふつうの道路事情なのです。

対人事故は死傷事故に

 ふたたび運動エネルギーのことをお話しします。人は皮と肉と骨でできた弱い存在ですから、当然ながら、運転者のケースよりもはるかに高い確率で死傷事故になります。運転者はエアバッグやシートベルトで守られていますが、外を歩いている人間にはそういう装置は何もありません。クルマが出す運動エネルギーは巨大なもので(PP30)、大人が普通に出しうる運動エネルギー、たとえば私がふつうに歩いていてみなさんにぶつかったときに生じる運動エネルギーに比べると、2000倍の破壊力があります。子どもたちに対してならば数万倍から数十万倍の破壊力があります。それだけの運動エネルギーを発揮するものが、日常空間を走っているわけです。

その帰結

 するとこういうことが起こります(PP31)。これは1965年の沖縄の出来事ですが、女の子が即死しました。相手が米軍であるためにこの写真は残りましたが、日々にこういうことが全国津々浦々で起こって、年間400人から500人の子どもが死に、お年寄りは3000人死んで、通常の歩行者だけで5500人の命が奪われているのです。でもこういう現場を目にすることはまったくといっていいほどないと思います。今日は敢えてお見せしました。
 新聞記事をいくつか持ってきましたが、こういうことはザラに起こっています。「トラック追突、姉妹即死。集団登校の列に車」(PP32)。それぞれ小学生が死んだりケガをしたりしています。でもこういうことはザラに起こっていて、新聞ではほとんど扱われないか、扱われてもベタ記事ていどにしかなりません。でも実のところ、こういう事故はそれほどにしばしば起こっているのです。極めつけはこれかなと思うのが、鳥取県で起こった事件です(PP33)。3人の姉妹たちが学校に通う歩道のそばに、ある日一台のクルマが現われたのです。時速100キロくらい出していたそうですが、そのクルマは急カーブを曲がりきれなくて、歩道に乗り上げてしまったのです。そのときにつきあたりの壁に激突しました。そこで大破してくれればよかったのですが、そうならなかったのです。真正面にぶつかって大破せずに、鋭い角度でぶつかったものですから、そのまま向きを変えて歩道上を走りました。そして3人の少女に衝突したのですね。一番上のお姉ちゃんはそのまま十数メートルも飛ばされまして、竹やぶのなかに落ちました。救急隊が来たときには虫の息で、救急車で運ぶ途中で死にました。真ん中の女の子は側溝に叩きつけられました。水がなかったので窒息はしませんでしたが、逆に水がなかったために全身打撲になったのです。病院に連れて行かれましたが、病院で死にました。一番下の女の子は衝撃で首が切れてしまい、現場は血の海になったのです。これは三人姉妹が一度に死亡した事例なので新聞記事になりましたが、しかしこういうことが日々に起こっても、何ら疑われていないのが今日の社会なのです。
 くどいようですが、もう一つお見せします(PP34)。1991年、北海道での子どもを巻き込んだ死亡および重体事故の一覧です。「重傷」ではなく「重体」です。とくに頭をやられたケースで、多かれ少なかれ死にいたるケースです。「札幌市道道交差点で頚椎損傷などで4時間後に死亡」。「釧路市市道の丁字路で、頭蓋骨骨折などで5時間後に死亡」。「帯広市で強打によって2時間後に死亡」・・・・(PP35)。これだけの規模で、現実に、子どもたちの命が奪われてしまうのです。こういうことですから、親は朝、子どもを学校に送り出してから安心して過ごすことができません。子どもがその日、生きて帰ってくるかどうか確信がもてないほどにちまたは危険になっているわけです。これを見て下さい(PP36)。小学校一年生というのがどんなに危険にさらされているかお分かりだろうと思います。一番左に「幼児」とありますが、これは0歳児から6歳児までを含んでいますから、じつのところそれぞれの年齢ではさほど多いとは言えません。しかし小学生は危険なのです。とくに登下校時が危険なのです。クルマが道路にひしめいていますから。

騒音被害

 それから、自動車というのは命を危険にさらすこと以外にいろいろな問題を持っています。騒音被害を調査しますと(PP37)、自動車による騒音に対する苦情は非常に多いのです。このなかにはアイドリング被害のケースが含まれています。私たちがなんとなくクルマをその辺に止めて、一時停止をしているだけで、まわりのひとたちがどんなに苦しんでいるかわからないという事実が垣間見えます。騒音が与える影響は結構深刻です。70ホンのところと60ホンのところを比較したケースをお見せしますが(PP38)、騒音によって心理的な影響が及ぶということが明らかになっています。外側の実線で書いた部分が70ホンの地域で、破線の部分が60ホンの部分です。10ホンの違いですが、エネルギー量は100倍の差があります。60ホンというのは静かなクルマのなか、もしくは通常の会議くらいの場です。私はいまマイクを使っていますから65ホンくらいあると思いますが、70ホンというのは電話のベルの音、あるいは騒々しい街角の音などと言われています。60ホンの地域と70ホンの地域のどちらかに住んでいるかで、かなり心理的な影響に差が出ると言われています。くわしくお話しすることはできませんが、こちらは自動車騒音によって身体的影響が出るということを示したもので(PP39)、バツ印が斜め上に向かっていますが、ホン数が高くなればなるほど病気にかかる率が高くなるということを示しています。

大規模な大気汚染

 大気汚染はもちろん有名な事実です(PP40)。データは1985年と91年でちょっと古いですが、78年に二酸化窒素の基準がかなり大幅に緩められてしまい、その結果環境基準を満たしたということに、形の上ではなったのですが、実際にはその環境基準さえ満たせない場所が増えています。これを見るとわかるように、千葉大のあたりは、85年頃はまだしも悪くなかったのですが、91年には環境基準を超えてしまっていますね。すると何が起こるかといえば、もちろん喘息患者が増える可能性が高まります(PP41)。二酸化窒素の影響です。それから粒子状物質。これが発ガン物質ですから、非常に危険です。これは先日出た「東京大気汚染裁判」の判決のニュースですが(PP42)、「道路公害に五度断」と書いてあります。メーカーの法的責任まで、裁判所は認めませんでしたが、しかし排気ガスと健康被害との因果関係は否定できないという判断は、定着しました。

子どもの遊び場の喪失

 もっといろんな問題があります。自動車がもたらす問題は本当に多様で、細かく述べられませんが、子どもの遊び場がこの間どれだけ減ってきたか(PP43)。1955年というのはモータリゼーションが始まりかけた時期です。それから20年たった75年になりますと、全国平均ではじつに遊び場が10分の1に減ったのですが、大都市圏では20分の1にまで減ってしまったのです。1990年にはどうなったかと言えば、全国平均では20分の1に減り、大都市圏では40分の1にまで減ってしまった、というのです。子どもの遊び場がクルマによってこれだけ奪われてしまいました。
 まず、道が危険になってしまいました。したがって道で遊ぶことを学校や家が禁止するようになってしまいました。それからいわゆる空き地がなくなりました。空き地があったとしても、駐車場として利用されてしまうのですね。もちろん、駐車場でだって、子どもたちは遊びたい。しかし事故の可能性がありますので、結局「子どもは遊んではいけない」という表示が非常にしばしば駐車場にされるようになります(PP44)。この辺の地域にも、昔ながらの路地が多いと思います。そこにあちらこちらに駐車場あるようですが、もとはほとんど確実に子どもたちの遊び場であっただろうと思います。そうやって遊び場が奪われて、35年の間に、遊び場が40分の1にまで減ってしまった、そこまで子どもが追い詰められた、というのがモータリゼーションが子どもにもたらした、もう一つの影響です。

公共交通の衰退

 お年寄りも大きな影響を受けました。公共交通が衰退して、窮地におかれてしまっているのです。大都市以外、たとえば地方都市では、どれだけの影響が出たか(PP45)。この場合はバスの本数ですが、65年から2000年までにだいたい3分の1くらいに減っていること分かります。まっとうに乗るバスがありません。あっても高くて乗ることができません。それでいて、郊外にマーケットが次々に作られます。クルマ利用者はこれをふつうに使えるのですが、お年寄りはクルマでは行くことができない。行くことができないでどうするかというと、結局のところ歩いて、何キロもの道を歩いて買い物に行くか、たまにやってくる移動販売車によってかろうじて生活しているというお年寄りは、決して少なくはありません。モータリゼーションはそうした問題も引き起こしております。

メーカーが負うべき懲罰的賠償

 ところで最初の話に戻りますが、メーカーが負うべき「懲罰的な賠償」があるとしたら、額はどれくらいになるだろうか(PP46)。先ほどのタバコ賠償のケースと比較して言えば、もし8000人の運転者の死者について同じ額の懲罰的な賠償を負わせるとしたら、およそ1兆円の賠償金をメーカー側は支払わなければいけません。ところで死者は1万4000人に達しております。くどいようですが、これは警察庁発表の数時ではありません。警察統計は、事故後24時間以上経って死亡した人は「負傷者」扱いをしています。私の知っているある子は2日して亡くなったのですが、この子は、統計上は「負傷者」なのです。統計にはそんなからくりがあるために、ここでは実数で表現していす。約1万4000人の死者に関して、およそ1兆7250億円の懲罰的な賠償金が支払われる必要があります。さきほどのケースと単純に対比した場合です。
 ところで自動車がもたらす社会的な影響というのは多様であり、それをなくすための「社会的費用」――これはもちろん社会が払っているから社会的費用と言うのであって、本当は自動車利用者あるいはメーカーが払うべきものだと思いますが――、その社会的費用は1990年前後に行った私の計算では、東京都内だけとっても345兆円に達します(PP47)。当時東京都内でクルマの台数は443万台。一台あたり7790万円という計算になりました。これは東京大学の宇沢弘文さんという有名な経済学者の方式に基づいて計算しなおしたものです。その345という数字は、フィリップ・モリス社に支払要求された3億4500億円の100倍にあたることがわかります。東京都だけでも345兆円。日本全国ではゆうに1000兆円を越えているだろうと思います。
 タバコと異なり、もちろんクルマについてはそれがもたらす「経済効果」が言われて、現状が合理化される傾向があります(PP48)。今日の新聞でもそうですが、トヨタや日産がどれくらいクルマの売上を伸ばしたかということが常に話題になるわけです。実際、たしかに自動車というのは経済的な波及効果が高いです。道路工事から多様なクルマ関連の職種も含めて、たくさんの雇用の場を用意しているという事実があります。しかしそれにしても、いま述べた経済的な負の効果を、つまり社会的な費用の大きさを、考慮しなければならないのではないかと思います。タバコの場合には、各州の司法長官によって「医療負担を支払え」という訴訟がタバコ会社に対して起こされています。タバコの場合には医療費の負担が問われているわけですが、自動車の場合にはそれさえ満足に問われていません。しかし必要な医療費は膨大ですし、もちろん事故予防のためになされる道路整備等を考慮すれば、社会的な費用の大きさは、さきほどの1000兆円をさえ超える、文字通り天文学的なものになるということは明らかです。なるほど、公共事業等によって雇用を増やすと言われるかもしれませんが、公共事業のあり方そのものも国民の生活の安定と福祉との関連からすれば、当然問われなければなりません。やっとそれが、現在の行政改革の流れのなかで問われつつありますが、したがって単純にクルマの経済効果なるものによって今までの現状が合理化されるというようなことは、あってはならないことだと私は考えます。

第2部 ポルノの場合

 さて、第二のテーマに話を移したいと思います。つまり「ポルノの場合」(PP49)。「ポルノグラフィー」のことを以下「ポルノ」と言います。ポルノグラフィーは、活字であったり、漫画であったり、写真であったり、多様な媒体において花盛りです。そんな中で、ことに現在広範囲に流通しているのは、いわゆるアダルト・ビデオです(PP50)。これは、ホームビデオが普及しはじめてから、この15年くらいで質量ともに劇的に増えました。あまりに量が膨大すぎて調べることができませんが、たぶん一日で何十本か新しいビデオが市場に流れています。年間で言うと、何万本というビデオが放出されています。もちろんそれは種類の話です。それぞれの種類のビデオが、1000、2000という単位で流通しています。ご存知かもしれませんが、通常のビデオ屋さんで貸し出されているのは、いわゆる「ビデ倫」、つまり「ビデオ倫理協議会」が関わっておりますが、最近はそうではなくて販売を目的としたビデオが普及しております。「インディーズ」といっておりますが、CDその他で、新しいジャンルで出してきたものをインディーズと呼んでいますが、その名前をとって呼ばれています。これは「セルビデオ」として販売されています。インディーズになりますと、悪質さはかなり高まります。それとは別に裏ビデオという世界があります。非合法の、もしくは非合法を装ったビデオです。それらを含め、膨大な量のアダルトビデオが日本中に蔓延しています。外国人が日本に来ると、日本社会のポルノグラフィーの蔓延に驚くわけですね。それはもう比類がないと言って良いかもしれません。言葉が抽象的ですが、その悪質さも比類がない。そういう傾向のものが非常に多いのです。ここではアダルトビデオだけに話を絞っていますが、いわゆる写真、雑誌その他を含めて同じ傾向にあります。私たちの日常環境に入りこんできて、小学生でも手に入ります。コンビニでも手に入ります。そういう顕著な傾向が日本社会にはあります。

ポルノとは

 ところで、ポルノとはどういうものを指しているかということを明らかにしておきます。私の本のなかで書いていますが(PP51)、「女性に対する性的な暴力や強制や支配というもの(これはいわゆる「暴力的」aggressiveなポルノの場合です)、もしくは、あるいは、かつ、女性を性的におとしめるような仕方でその身体や振舞い、性行為を描いて(これは「非暴力的」non-aggressiveなポルノの場合を念頭に置いています)、かつ、それらを明示的もしくは暗示的な仕方で是認し、ときに推奨しようとする、もしくは先導さえしようとする、性的にあからさまな素材」、それをポルノをここでは呼んでいます。  「おとしめ」という言葉をいま使いましたけれども、その「おとしめ」というのはもうちょっと具体的に言いますとこういうことです(PP52)。女性を非人間化する内容を持っていること、男性との関係において非常に不平等な力関係の表現が行われていること、それから女性のセクシュアリティ、性的な諸特質だとか性行動ということですが、それの歪曲などを含んでいる場合。これ自体非常に抽象的ですがも、そうしたものを念頭においています。
 非常に嫌ですが、ちょっとだけお見せ致します(PP53)。これは「暴力的」なポルノの典型例のパッケージです。こちらは「非暴力的」ポルノのパッケージ(PP54)。ここにあるのは明確な形の暴力ではありませんが、しかしフェミニストはこれもまた暴力だと言っていますので、あくまで括弧つきで「非暴力的」なポルノとしておきます。もうポルノの具体レイをお見せするのは避けたいと思います。私の発表自体がポルノグラフィックになってしまうのは嫌ですから。
 ところでポルノの流通はなぜこれほどに顕著かつ広範なものになったのか(PP55)。一面では、公権力が介入しなくなったということが挙げられますが、いわゆる1970年代以降の「第二次フェミニズム運動」の影響を受けた結果、性に関する考え方が非常に変化してきましたし、あるいは、性の解放現象と言ってもよべる事態に由来しているという側面がたしかにあると思うのです。ところが、問題はそうしたポルノが無条件で受容できるかということです。ポルノがどんな影響を及ぼすか。さきほど、私はこのテーマを話し始めたときに、ポルノの持っている「危険性」が語られなくてよいかどうか、ということを述べましたが、その「危険性」とはどういうものであるかということを、いくつかについてまとめてあります。

ポルノが歪める女性像

 ひとつは、ポルノが歪める女性像の問題だろうと思います。まず「暴力的」なポルノですが(PP56)――いわゆる「レイプもの」と言われているもので、女性を暴力的に犯すものです――、そうした内容のものでは、ことに被害者が「肯定的」な反応を示す場合に大きな影響を視聴者に与えます。「肯定的」ということの意味はお分かりにならないかもしれません。それは、レイプされて女性がそれに性的に喜ぶという意味です。現実にはありそうもないことです。しかし男性でも、仮にペニスの先頭の亀頭を触られたときに、若干の刺激を受けてしまうことがあります。それは望んでいない場合でもまれに起こり得ます。それと同じことが女性でも起こることがありますが、だからといって女性がレイプを喜ぶとは言えません。けれども、ポルノのなかでは女性がレイプされて喜ぶ、そして性的に興奮するというパターンがあります。それが、「肯定的な反応」と言っているものです。変な表現ですが、アメリカのフェミニストはそうした言い方をしますので、そのまま使ってあります。さて、被害者が「肯定的」な反応を示すような映像に接触しますと、視聴者はレイプを些細なことと見るようになる傾向があります。要するに、レイプなど大した犯罪ではない、と。かつ被害女性はもちろんながら、女性は一般に実際にレイプによって快楽を経験すると思うようになる。これはアメリカにおける心理学的な実験研究の結果として報告されているものです。それから、「暴力的」なポルノへの度重なる暴露を通じて、視聴者は脱感作、つまりだんだん慣れていってしまう、暴力といったものを感じなくなってくるという傾向が引き起こされます(PP57)。暴力的なものでも、また暴力的でないものでもそういう傾向を引き起こしますが、暴力的なポルノの場合、かなり刺激の強いものであっても、そうした傾向を起こさせます。それによって、女性に対する暴力という見方が、ポルノのなかで描かれているものが女性に対する暴力であるという感覚がだんだん鈍磨されてくる、という傾向が生まれます。したがって、表現内容がそもそも暴力的であり女性を貶めるというような理解は低下してくるし、それどころか視聴者はだんだんそれを楽しむようになる、楽しめると評価するようになるという、結論が出ています。

いわゆる「非暴力的」なポルノの場合

 非暴力的」なポルノと述べました。主として、女性の身体を性的な興味だけで扱ったものや、あるいは性行為だけを扱ったものもあります。フェミニストも性行為を扱ったものを単純に否定しているわけではなくて、フェミニストが「エロチカ」と呼ぶ、男女の平等な関係を前提に性行為を描いたものなどもありますが――もちろん区分けはそう容易ではなく、グレーゾーンに属するものもたくさんありますが――、しかし暴力が必ずしも顕著ではないとはいえ、それでもやはりポルノとしか言えないようなものはたくさんあります。そうしたポルノ接触した視聴者は、どういう傾向をもつようになるか。  たとえば、「ゆがんだ」女性像を持つようになると書きました(PP58)。「ゆがんだ」ということの意味が不明瞭ですが、男性の集団においてささやかれているような淫靡な俗言というものがあります。たとえば「女性はいやだといってもそれはイエスということだ」というのが典型的ですが、それと類するようなものですね。女性のまえでは必ずしも口にしないけれども、一般的な男性集団において比較的淫靡にささやかれているような俗言ですが、「非暴力的」なものでもポルノに接触していると、そうした俗言を非常に強く信じるようになる、という結果が出ています。それから、先ほど述べた「暴力的」ポルノの場合と似ていますが、結局のところレイプを些細なここと見るようになる、ということも言われています。それをどういう仕方で調べるかというと、たとえば視聴者に、「レイプ犯にどれくらいの罰を負わせるべきか」という質問に答えてもらい、そうではない統制グループの回答と比較してみます。そうすると、ポルノに長く接した人は、レイプ犯に対して科すべき拘禁期間を短くてよいと判断する傾向がある。それから、レイプ犠牲者に対する共感を喪失する傾向がある。それから、女性一般に対する共感を喪失する傾向もある。それからフェミニズム運動にどんな意見を持つかについて調べて見ると、長期の視聴者はそれについて顕著に否定的な答えを出す傾向がある。つまり、共感できないというふうに答える傾向があるのです。そういう結果が知られています。

「性的モノ化」の助長

 それからすこし別の観点ですが、ポルノ視聴は、女性の「性的なモノ化」を強めます(PP59)。アメリカのフェミニストはsexual objectificationという言葉を使っています。「対象化」とはちょっと違います。「客体化」ともまたニュアンスが違って、いわゆる「モノ化」に近いイメージなのです。つまり、まっとうな人間をそこに見ないという意味です。女性を性的な身体に還元してしまう。そういう側面をここでは「女性の性的なモノ化」と呼んでいます。性的な関心からのみ女性を見て、性的関心からのみ働きかけるという意味で、女性の性的なモノ化とここで書いておきましたが、つまり女性を人間として見ないで、性的な身体としてしか見ない。あるいは肉体としか見ない。あるいは、嫌な言葉ですが「女体」としか見ない。そういった現象を指しています。ポルノ視聴を通じて、とくにそうした傾向が強まります。ことさら、性に無関係な事柄であっても、当事者が男か女かということに拘る人――たとえば「学生である」「教師である」と聞いて、それが男か女かに拘る人がいますが、そういう人です――において、とくに男性において、そうした傾向が強まるという結果が出ています。

ポルノが助長する攻撃性

 最も気になるのは攻撃性という問題ですが、これはなかなか難しい。というのはこれを実験室で調べるということがなかなかできないからですが、しかし「暴力的」なポルノは女性に対する攻撃行動を助長する傾向があると言われます(PP60)。それがとくに犠牲者の「肯定的」な反応を描いている場合には、それが顕著です。それから、ポルノに関わる心理学研究では、「暴力的」なポルノを見せたときとそうでないときとでいろいろな統制的な実験をするのですが、たとえば男性に、「つかまらないと分かったときには女性をレイプするか」、「女性と通常のセックスをするのに力を使うか」というアンケートに答えてもらう。
暴力的なポルノを見せた結果はどうかというと、視聴者はそれらの気持ちを増大させる傾向があります。両者の相関係数は高いと言わざるをえません。危険なのは、視聴者が怒りを持っている場合なのです(PP61)。とくに女性に対して怒りを持っている場合です。ポルノにおける被害者の反応が「否定的」な場合は必ずしも暴力性は高まらないのですが(しかし最近ではわかりませんね。あまりにも暴力的なポルノに我々が接触しすぎて上記の脱感作を起こしている可能性がありますから。しかし15年前の研究ではそうなっています)、けれども、視聴者が怒りを持っている場合には、被害者の反応が「肯定的」であれ「否定的」であれ、女性に対する攻撃を増大させる傾向にあります。「非暴力的」なポルノの場合でも(PP62)、長期間接触していると、視聴者がとくに高いレベルの怒りや欲求不満を持っている場合、アルコールなどを摂取している場合には、暴力への外的な抑制を低下させることを通じて、女性に対する攻撃行動をもたらす可能性があると言われています。とくに、ポルノが女性を物のごとく描いたり、女性に対する非常に不平等な男女の関係を描いたり、あるいは非常に隠微な圧力を描く場合、それが攻撃行動の要因になっているのではないかと、仮に「暴力的」なものがなく、あくまで「非暴力的」なものであったとしても、そうした内容が暴力を触発するのではないか、と言われています。ちなみに、ダイアナ・ラッセルというアメリカの有名なフェミニストは、「非暴力的」であれ男性が長期間ポルノに接触するとか、ある程度であれ怒りを持っているというのは「普通の状況である」と言っています。70年代以降女性の社会進出が非常に進んできていますが、そういう状況下で、しかもポルノが非常に蔓延しているという現実を考えたとき、上に言われている状況というのは当たり前の状況であると。だから、要するに現状は恐るべきことだ、とラッセルは言おうとしているのです。
 それから、先ほどのアンケート調査ですが(PP63)、「非暴力的」なポルノの場合でも、「捕まらなかったらレイプを犯す」とか「女性が望んでいないセックスを強いる気がある」という報告が、前者については「暴力的」なポルノの視聴者なみに増加する、後者については、「暴力的」なポルノの場合以上に増加するという実験結果――なぜそうなるのか私にはよく分からないのですが――が出ています。

「つかまらなければレイプを犯す」

 さらに恐ろしいと思うのは、つぎのことです。これまで述べたのはいわゆる「実験研究」の結果であって、果たしてこれがどこまで一般化できるかどうか多々問題はあるのですが、異なった手法の研究、例えばポルノ接触が非常に多いグループと少ないグループと分けて――これはかなり長期間にわたって追跡調査をする研究、いわゆる「相関研究」ですが――、それらの人たちが性に対してどのような態度を示すかを調査する研究です(PP64)。この研究では、「レイプを支える信念」や「レイプ神話」――その区別をくわしくお話しする余裕はありませんが――の受容度が、有意味に高くなるという結果を出しています。「レイプを支える信念」とは、たとえば女性に対する差別意識とか、女性が職場で働くことを快く思わない、自分の妻が夜どこかに行ったときにそれを気にする、あるいはそれを詮索しようとする、もしくはそれらを当然視するといった意識なり信念のことです。問題の相関研究は、これらがレイプを支えるというふうに理解しますが、「非暴力的」なものであっても、ポルノに長期間にわたって接触すると、そうした信念の受容度が有意味に高くなるというのです。あるいは、レイプされても女性は性的にそれを喜ぶとか、女性がレイプされるのは男性を性的に触発したからだとか、それは嘘なんですが、しかしそうした神話が今かなり流布してい。それらを「レイプ神念」と言っていますが、やはり、「非暴力的」なものであれポルノへの長期の接触を通じて、それらの受容度が高くなります。また、女性に対する「暴力を受容する」という傾向が高くなる。それから、「性的無感覚」というのは、たとえば通常のセックスにおいて女性の性的な反応を気に留めるかどうかということまで含めて、性的なことを、考えないことをいっておりますが、そうした無感覚が強まるという傾向をも示しております。

ポルノが作るセクシュアリティ

 つまりこれは、たんなる行動のレベルではなくてその元にあるセクシュアリティの部分での影響です(PP64)。つまり、パーソナリティ・レベルの人間のあり方です。哲学で言うところの、いわゆる行動に対するSein、存在のレベルでの人間のあり方です。性の場面に関するパーソナリティをセクシュアリティと私は言っていますが、そうしたセクシュアリティにまでポルノの影響が及んでいるということを垣間見せていると思われます。  私は、女性支配を核とするようなセクシュアリティを「男権主義的なセクシュアリティ」と名づけていますが、そうしセクシュアリティの元に或る種のイデオロギーがあって、いま述べた「レイプ神話」などをそれは含むのですが、そうしたイデオロギーと同時に、女性支配のために男性の力を権力として利用するという指向が「男権主義的なセクシュアリティ」の元にあると思うのですが(PP65)、結局のところポルノは、それらの両者を強めるという結果が出ているのです。それらを通じてセクシュアリティそのものに、つまり行動のレベルだけではなくその元にあるパーソナリティ・レベルにまで、ポルノは影響をもたらすと私は考えるということを、申し上げたいのです。

ポルノが誘発した性犯罪

 ポルノが誘発した最近の性犯罪で私が気になったのは次の二つです(PP64)。北海道旭川の出来事ですが、女子中学生を男子中学生たちが集団で監禁して、フェラチオを強制した。これはほとんどポルノグラフィーそのものです。残念ですが、そうした内容のポルノグラフィーが巷に出まわっています。ホテルでポルノグラフィーが上演されているということはざらにあって、驚いたことに国家公務員共済組合のホテルでもそうなのです。男女雇用機会均等法が作られ、そしてそれから男女共同参画法を作って、共同参画ということがしきりに言われるようになっていますが、男女の平等の実現を任務として推進すべき立場の国家公務員の共済組合でやっているのですね。ここではお話しできませんが、その内容は驚くべきものです。それから私学共済が作っているホテルでもです。そこはたいていの場合結婚式場になっており、そのロビーは非常に華やいだ雰囲気が漂っているのですが、そこのホテルでもまったく同じなのです。先ほど述べた旭川での事件は、何が要因になったのでしょう。いろいろありうると思いますが、典型的にポルノの影響がなければ考えられないと言ってよいでしょう。捜査官が、もしポルノ接触まで含めて加害者の生活を調査したとすれば、ポルノ(アダルトビデオ)は、大きな要因として確実に問題化しえただろうと私は確信しています。
 次の事例はもっとはっきりしています。中学教師が、テレクラで知り合った女子中学生を神戸で誘拐して、クルマに乗せて監禁場所につれて行こうとした最中に、被害者がクルマから飛び降りて、後続のクルマにひかれて死亡した、という事件です。ここでは、事件のなかにポルノが実際に出てきていますが(被害者を監禁しては、その様子をビデオにとっていたのです)、加害者は被害者の抵抗をくじくために、催涙スプレーを使っているのです。これはアダルトビデオの「監禁もの」と酷似しています。要するに、薬物を使って女性を失神させることで、相手を思いのままにし、体中を緊縛するのです。耳をふさぎたくなる人もいるかと思いますが、恐るべきことに、そんな内容のものが当たり前のものとして流通しているのです。この第二の事例は、先日控訴審判決が出ました。女子中学生が死亡した事実に加害者は責任がないと。というよりは、加害者に着いて行った女子中学生にもスキがあったというのです。そういう時代錯誤の判断を、日本ではいまだに下しているのです。

ポルノの「欠陥」

 ポルノの「欠陥」というものがあるとすれば(PP67)、さきほど来述べたことをすべて含まなければなりませんが、広い意味で性犯罪を助長することであると私は考えています。じっさい、いま述べたようにポルノに誘発された性犯罪はたしかに起きています。いまはふたつしか紹介しませんでしたが、日々にたくさん、ポルノとの関連を疑わなければならないような性犯罪が実際に起きております。私が関わっているメーリングリストではそうした関連を疑わせる情報が日々に流れています。ここでは、典型的な例だけを挙げておきました。
 ポルノの商品としての価値は通常は「性的な興奮を惹起すること」ですが(PP68)、同時にそれが性犯罪の手口を学習させ、性犯罪を学習させ、性犯罪を教唆あるいは扇動するような点があるとすれば、それが問題だということなのです。あるいは最初に述べたように、男性が持つ女性像を歪めてしまう点、そこにも大きな問題を見めなければならないだろうと思います。

「カタルシス」効果はあるか

 もう時間がありませんが、もう一点だけ述べます。ポルノや一般的な暴力映像が持つ問題がしばしば指摘されるなかで、とくに暴力映像の「カタルシス効果」ということが言われることがあります。しかし残念ながら、これをむしろ否定する研究のほうが多いのです。ある部分でカタルシス効果があったとしても、他の部分ではむしろ顕著に暴力に関わる方法を教え、そして扇動する。そして暴力へと洗脳するというのです。とくにポルノの場合には顕著だと思います。通常の暴力映像を見て、短に興奮するばかりか、実際に暴力的な傾向をもつようになる、もしくはそれを実際に真似したいと思うひとは、私はほとんどいないと思いますが、ポルノの場合には扇動されるケースが多い。私はそう思います。暴力それ自体を愛好し、実際の暴力行使に興奮する人は少ないと思いますが、性暴力の場合はそうではないのです。これは、私の経験まで含めての意見です。私はずいぶんポルノを研究して、この間、見たくもないポルノをいっぱい見てしまいましたが、最初のころとやはり感覚が変わってしまいました。正直に言って、そう思います。「暴力的」なものにまで、ある種の興奮を覚えている自分を見出すことがあるのです。これは本当の話です。私はそれまで、正直に言って「暴力的」な映像に興奮したことはあまりありませんでした。なんであんなものに興奮できるのか、ちょっと信じがたい。むしろ目をそむけスイッチを切りたくなることのほうが多かったのです。けれども、今はちょっと感覚が変わってしまいました。先ほどの実験研究では被験者としてたいてい大学生を使うのですが、ポルノの実験研究によって誤って得てしまった情報を除去するための「誤情報除去」という手続きが必ず取られます。けれども、私の場合にはそれがなされないままになってしまったのです。そしてこの巷でふつうに生活している圧倒的に多数の男性たちには誤情報を除去するようなシステムが存在していません。それは、恐るべきことだと思うのですね。

ポルノと「広告」の倫理

 ポルノはいわゆる猥褻基準で問題にするのではなくて、女性に対する暴力という観点で問題にされるべきだと思います(PP70)。しかしそうした観点がまったくないので、ある部分にボカシを入れさえすれば、どんなとんでもない暴力映像だろうと認可されてしまうのですね。私はそれはあまりにも問題であると思います。猥褻ははっきり言ってあまり害がない、もちろん子どもに見せていいかどうかは別ですが、基本的には害はないだろうと思っています。けれども問題なのは、猥褻ではなくて女性に対する暴力だと思うのですね。その点からポルノの是非は問われるべきだろうと思います。  タバコと同じように一般の商品もまた、それがもたらしうる「危険」がその商品において明示されるべきであって、ポルノもまたこの観点から表示するべきだし、させるべきだと思います。実際にポルノによって被害を受けた人はいるわけですね。私も、日本でそういう証言を集める努力をしているのですが、アメリカの場合ではこれは典型的に出ています。1984年にアメリカのインディアナポリスで公聴会が開かれて、そこでたくさんの女性たちが証言しているのです。もちろんどんな被害を受けたって、加害者がポルノに言及しなければ、ポルノが原因だということはわからないわけですが、それにしても、少ない例とはいっても、かなり深刻な事例が報告されています。それゆえ、実際にポルノの影響下にある男性から被害を受けたと思われる当事者が、結局のところその被害がポルノに基づくものであるということを立証する権利を保障するべきだろうと思うのです。80年代にマッキノンとドゥオーキンが事前検閲を目指したなどとよく言われるのですが(PP71)、そうではなくて、結局のところいま述べたような立証する権利を与えるために、民事裁判に訴えることを可能にするような条例案を作ったのです。ところがそれは、表現の自由との関わりで市長が拒否権を発動したために成立しませんでしたが、しかしマッキノンらの運動は、事前検閲を目指したのではなくて、性被害の被害者たちに対して、その被害が何に基づくのかということを立証する機会を提供しようというものだったし、そしてその必要は今ますます高くなっていると私は思うのです。
 私の考える、具体的な対処法としては、ポルノに関連する商品のパッケージに、「これを見ると女性像が歪みます、あるいは場合によっては女性に対する攻撃性を惹起します」ということを、書かせたい。むろん、それはかえってポルノそのものを是認してしまう効果をもってしまう点は危惧しますが、しかし現状では致し方ないし、それができれば、さらに民事訴訟を起こす可能性、あるいはそのための法律を作る可能性が開かれるのではないか、と思うのです。

まとめ

 最後にまとめますが、私は自動車メーカーとポルノ製作者の権力というものは非常に大きいと考えていす。自動車メーカーの権力の大きさは、想像を絶しています。私たちの圧倒的多数が、日々の欲求をコントロールされてしまうという側面さえあります。そしてポルノ製作者の権力も非常に大きいです。ポルノ製作者が作るポルノが、問題があるということをいかに声を大にして語ろうとしても基本的にその声が通らないほどに大きい。「表現の自由」それ自体を否定することはできませんが、今は、巨大な権力の保持者にとっての表現の自由になってしまっているのですね。結局私たち一般の市民にとっては、表現の不自由でしかない側面があります。表現の自由を前提にしながら、製作者の権力を問題にしなければならないと考えるわけです。そのために、一般の市民が、それらの商品によって、たとえばここではクルマとポルノですが、市民生活に加えられる害に対抗するためには、広告に対する社会的な批判ですとか、社会的な調整というものは、むしろ当然のことであると考えるべきだと思います。つまり規制が必要なのです。規制とはイギリス語ではregulationですけれども、restrainに比べて、むしろ社会的な調整の意味が強いのですね。これを「規制」と訳すと「検閲を認めるのか」と言われてしまうことになりかねないのですが、そう言う意味でのrestrainではなくてregulationである、社会的な調整ということなのです。表現の自由さえ、常に社会的な意味を持つのですから、社会的な批判にさらされるべきは当然のことであると考えます。そのために調整が必要であると考えるわけです。
 その観点に立脚して、損害賠償裁判を可能にし、そのプロセスを通じてクルマやポルノによる被害者が――たとえばクルマによる被害者というのは、もちろんクルマの運転者その人である場合もあれば、クルマがどんなに危険かということを知らされずにまんまと買わされてしまった人、あるいは実際に命を奪われた被害者・歩行者の家族ということもあるでしょうし、あるいはケガをさせられて一生クルマ椅子で生活を送らざるを得なかった当人であるかもしれませんし、そういったひとたちが損害賠償裁判のプロセスを通じて、問題を提起し続けることが、この状況を改善するために不可欠なのではないか、と考えている次第です。

質疑
司会

 ありがとうございました。それではさっそくですが、杉田さんのご発表に対してご質問、ご意見などがありましたら受けたまわりたいと思います。  それでは私の方からひとつ質問です。非常に外見的な状況ですが、杉田さんがとくにクルマについておっしゃった状況は、情報倫理で最も問題になっておりますインターネットにおける素人の使用の危険性という話と非常によく似ていると思います。特に「レールのない不安定さ」というのは、パソコンが汎用機として使われていろいろなことができすぎるようになる。そして使うのが素人である。この辺は、よく似ている話ですし、調整機関がないという点も、全体としてregulationがパソコンの使用にはないという点も似ています。日常空間に存在しているということは、インターネットの世界は閉じていないということですが、例えば電子決済の取引に使われるとか、教育の手段に使われるとかという点で、似ているところがあると思うのです。違うタイプのものがあるとも思われるのですが、何かその辺のところで感じることがありましたら、話してください。

杉田

 つまりパソコンの機能空間をどう考えるかという問題ですか。難しい問題ですね。あまり考えていないし、私の今日のテーマからして予想外の質問です。しかし、言われてみるとたしかに非常に似ているなという感じがしました。特に、いずれにおいても素人が使わざるをえない、しかし素人が使うことによってもたらされるリスクが、結局商品のレベルでは何も考えられていないということですね。確かに両者は非常によく似ていると思います。ただ、クルマの方に話を引き寄せてなんですが、パソコンを利用しても――いろいろな被害が出ているのだろうとは思いますが――、幸いなことに、クルマ利用と違って、何万人という人が死ぬとか、それで人が命を奪われたり、ケガをするといった現状がないだけで、幸いかなという気がします。

司会

 あえて比較するとすれば、パーソナリティの認知、個人情報の問題ですよね。誤った情報が伝わってしまう。

杉田

 その危険性はたしかに非常に大きいですね。さきほどの発表者のお話のなかにもありましたが、技術や科学が環境化することによって知覚空間と、何空間とおっしゃっていましたか、両者が非常に乖離してくるということですね。つまり、われわれが行う行動の及ぶ結果が、非常に遠隔の他者に及ぶようになるという現実がありますよね。パソコンなどを見ていると、それが典型的に現れてきていると思います。

司会

 そういう意味で類似点があるわけですが、もうひとつ(司会の立場で言ってしまいますが)、自動車の場合とパソコンの場合が良く似ているのは、やはりプロフェッショナル・ツールとして成立したものが、ある種の汎用性によって一般に普及してきて、そこで大きくなってきて――「権力」ということをおっしゃっていましたが――生産メーカーその他が権力化するということで歪んでくるという経緯があると思うのです。情報倫理の場合も、プロフェッショナル倫理としてどうなのか、ということが一時期よく問われたわけですが、クルマの場合にも「クルマがすべて悪いのか」というと流通上の問題ですね。資源流通、製品流通の場合に、実際に自動車というものは捨てられるものではない。特にこの場合商業車の問題になるわけですけれども、しかし商業車から自家用車にうつすとそのまま個人の娯楽のための道具という側面が実際には大きくなってしまう。でもその流れが、ある種の自由主義的な一般化ということが、モータリゼーションが始まって40年くらいですけれども、急速に広がってきてしまったというところに問題点があるので、クルマに対する規制への反対をなんとなく受け入れてしまうのは、インフラとして入ったものが異様な拡大をしたということがあると思うのですね。これもインターネットが研究者のプロフェッショナル・ツールとして成立していたものがそのまま娯楽まで含めて一般にまで急速に拡大したというのと非常に似ていると思うのです。そうすると、その辺に対する心理的な問題点。杉田さんは実際にこういう運動を起こされているということで具体的に対応されているのですけれども、理論的にその部分のギャップみたいなものですね。クルマが危険な道具であるということと同時に、クルマが我々の社会のインフラとして支えている歴史的なこともあり、実際にそれがどれくらいのパーセンテージかということは難しいと思いますけれども、そういう歴史的に支えられたクルマに賛同してしまうという心理条件ですね。そのあいだをどういうふうに調整していくかということの戦略というのがあれば。私はやはりそれが同時にある意味では、情報倫理の歴史とパラレルになりますので、同じ戦略と言いますか有効な戦略として使えるところがあるのではないかと思いますので、もし何かご意見がありましたらおきかせ頂ければと思います。

杉田

 そうですね。果たしてパソコンとパラレルになるかと言われると必ずしも分かりませんが、私の言っているところは結局のところ誤解されかねない部分があって、私はクルマというツールを、無意味であるとか存在しないほうがいいとは全然思わないのです。要は、だれでもが自由にアクセスできるという状況は問い直さなければならないのではないか、という問題提起しているのですが、重要なのは、誰がクルマを本当に必要としているのかということ、それを社会的に問い直さなければならない、ということではないかと思うのです。もちろん「本当に」という言葉は曖昧であって、いろいろな条件をつけて考えなければいけませんから簡単には言えないのですが、私は例えば社会的な弱者がまずクルマに対してアクセス権を持つべきだろうと思うのです。少なくともクルマがもつ社会的な功罪を含めて論議することを通じて、クルマにアクセス権を持っている人は誰かというところに議論をもっていきたい。したがって、それを通じての社会的な自己規制という方向で現状の改善がはかられれば、最も望ましいだろうと思います。
 ひとつ逆に司会者にお伺いしたいのですが、現在たとえばインターネットを含めたパソコンの利用の場合には、理論上出る方向性なり見通しなりというものはあるのですか?

司会

 無いんですね。杉田さんがおっしゃったように、重大な事故がないということと、プロフェッショナルと言われているものが、クルマの場合にはある意味で職人だったわけですよね。しかしインターネットの場合、これは私見ですけれども、研究者あるいはインテリ層が使っていたものがありますので、それを人間一般に拡大するんだという自由主義的な意味での運動が非常に強い形でフリーにいろんなものを使うんだという後押しが強かったように思うのですね。ですからその辺、人々が飛びついたということだけではなくて、広げようという運動が強かったということは開発者側からの後押しが強かった。それは、たんに経済的に商品を開発するという以上にイデオロギーとして広げたいということがあったということがあるので、その意味ではクルマ以上に急速に押し広げるというファクターがあったという問題点だけはあったと思います。

杉田

 クルマの場合には、ほとんどなしくずし的に「利便性」だけが全面に出されて使われてきてしまって、クルマの持っている問題性がその都度問われるということはほとんどなかったと思うのです。やはり社会的利用ということを考えたときには――さきほどは「弱者」のアクセス権という話をしましたが――、本質的にはクルマ特有の非常な不安定性を考慮したうえで、やはりある種のプロフェッショナルに運転を任せるということがなければ、クルマがもたらすマイナス面(ただし自動車事故に関するものについてのマイナス面ですが)は、結局は解消しないだろうと思います。  もうひとつは、これはあちこちの本で書いたことですが、もし本当のプロフェッショナルに任せるということができないとすれば(これは残念ですが確実にできないだろうと思いますが)、結局のところクルマの走る空間を特別な場所に限定するということが、大事だと思うのですね。私は、現実的な将来の方向性としてありうるのは――運転資格を限るというのは、インターネットのケースと似ていておそらく困難なので――、利用する場所を厳しく限定するという方向で社会を変えていくしかないのではないか、というふうに思っています。
 ちなみに言うと、ポルノの場合にはふたつ考えないといけないと思っています。ひとつは割合に社会的に受容される可能性が高いと思うのですが、いわゆる「棲み分け」という方法です。ただ、これがどれだけ実現できるかという問題があると思うのです。それだけでは解決しない問題があると思う。インターネットの普及という事実があり、今ではほとんど「棲み分け」が不可能な状況が生まれているわけで、これをどのように考えたらいいのか、私も実は悩んでいます。本当は、今日は「インターネットにおけるポルノの問題」ということで何かお話しできないかと思ったのですが、実のところどう考えても答えが出てこない。残念ですが、もっと深く考えてみてなかなか先が見えないというジレンマに陥りました。ただし、ポルノの場合には一般的に――今日はインターネットのことを棚において話していますが――、やはり今日述べたような内容の、非常に歪んだ女性像を生み出し、それを通じて男女の平等を破壊しかねない、あるいはすくなくとも男女の平等を実現するのに非常にしばしば水を差すような、そうした内容のものが作られているという現状に対して、やはり批判的な目が向けられなければならないのではないか、という思いはあるのです。とくにインターネットにおけるポルノの問題では、「棲み分け」のレベルでの議論ができないとすれば、やはり男女の平等という観点から考えるしか手はないのではないか、という印象を持っています。

司会

 ありがとうございました。それでは、杉田さんのご発表はここまでにさせていただきたいと思います。