クルマが優しくなるために

江戸時代の交通事情――徹底した人命尊重

 江戸時代に生きた人間が、もし現在の交通事情を見たとしたら、いったいどれほど驚くことだろう。江戸時代と言えば、交通機関としては牛車や大八車しかなかった時世である。そうした時代に生きた江戸人にとって、一人一人の人間が、首もなければ足もない金属のかたまりに乗って、超高速でいたる所を走りまわるという今日の交通事情は、ほとんど魔法か妖術の世界とうつるに違いない。だがそれ以上に彼らが驚くのは、おそらく、今日の社会における人命尊重観念の希薄さであろう。
 江戸時代は、人命が鴻毛ほどの重みしかなかった時代であるかのような印象を、私たちはいだいている。それはたしかにある面ではまちがっていないのだが、交通の場面では事実は逆である。ここで江戸時代が示した、無辜なる人民の殺傷に対する潔癖さは、特筆に値する。
 正徳六年(1716年)、幕府は、頻発する「交通事故」を前にして、以後、雇い主の責任規定まで含んだ、歩行者優先の断固たる処置をとることを町民に通告している。私たちはそれを、『御触書寛保集成』(岩波書店、1976年)に見ることができる。「自今以後は、此等之類〔=車引き、馬引き等〕、たとひあやまちより出来候て人を殺し候とも、一切に流罪に行はれ、事の体によりて、猶又重科に行はるへき者也」、と。そして実際、享保七年(1722年)に江戸神田で起きた「交通事故」では、子どもをひっかけてケガをさせた車引きは遠島(流罪)にあい、雇い主は罰金を課せられている。子どもを死に至らしめた享保十三年(1728年)のおんとう 「事故」では、直接子どもをひっかけた車引きは死罪に、同行していた他の車引きは、遠島の憂き目にあっているのである。(大石慎三郎『江戸時代』中公新書、1977年、130頁)。 もちろんここで科せられた刑罰は、今日的な発想からは過度に苛酷な処分とうつる。近代社会は、自由刑(懲役・禁固)すなわち教育刑による犯罪者の更正に重きをおくと同時に、引き起こされた過失には応分の刑罰を科した上で、過失者の能力の範囲内で賠償させることを社会原則としたからだ。それ故、加害者に科せられた先の量刑のみに注目するかぎり、江戸時代の交通政策は人命尊重どころかかえって人命軽視とうつるかもしれない。 しかし、常に加害者となりうる車の使用者にたいしてこのような重罪を課すことで(重罪の度合いはもちろん問題だが)、永遠の被害者たる歩行者、とくに子ども・老人等の社会的な弱者にとって得られる生命の安全は、いちじるしく高いものとなるであろう。いかに速度が遅かろうと、人間よりはるかに重くかつ大きい牛車・大八車を用いれば、他人に危害を加える可能性が高まることは明らかであり――いや、それは現実に頻発していた――、それ故こうした重罪による威嚇によって、その使用者に、危険な道具を用いることに対する厳重な自覚と慎重さを求めることができるからである。その意味で、交通事情を見るかぎり、江戸時代は人命尊重の徹底した時代であったと判断できる。
 しかも江戸時代は、実際に起きた事故に厳罰を課すことで事故抑制を図っただけではなく、そうした抑制策にもかかわらず起こりうる事故を予防するために最大の工夫をこらした点においても、徹底的に人命尊重を追求した時代といえるだろう。この時代が採用したその工夫とは、街中で牛車・大八車を走らせる場合には、その先頭に「宰領」をつけろと幕府が命じていたことである(大石、一三二ページ)。一九世紀イギリスでも、街中で走る自動車の先頭に赤旗をもった先導者をつけるようにとの法律が出されたことがあるというが、くしくも江戸の対策はこれと一致する。このように先導者が必要となれば、狭められた運転者の注意力は当の先導者によって大いに補われ、かつ車は時速五~六キロていどしか出すことができなくなるであろう。そしてそのことが運転者自身の注意力を回復させることになる。従って、先導者をおくことでえられる安全がいかに大きいかは明らかである。

今日の交通事情――徹底した人命軽視

 これと対比したとき、今日における人命軽視は明らかである。今日の車、つまり「自動車」の方が牛車・大八車に比べて過失を生みやすく、かつそこからもたらされる被害は甚大である。だが、私たちの社会が「自動車」の使用者に対して要求する配慮は、牛車・大八車の場合にはるかにおよばないのである。この点では、蒙を啓いたはずの今日の社会の方が、はるかに無知蒙昧な状態にとどまっている。
 そもそも自動車事故は、いかなる安全対策を施そうともかならず起こる。それは、自動車システムの根本的な特質に由来する。
 自動車はレールをもたないきわめて不安定な道具である。だがそれを――以下主として自家用車を念頭においている――仕事や勉学等の合間にかたてまにとった「免許」しか もたない素人が、かつ仕事や勉学等の合間にかたてまに運転しているというだけで(し かも彼らの運転はいかなる管理部門によっても管理されていない)、一般に自動車事故が不可避であることは明らかである(星野芳郎『技術と人間』中公新書、1969年、66-72ページ)。ここで「自動車事故」とは、さしあたって単独の事故を考えているが、実際にはおびただしい量の自動車が相互に出会いながら、しかも無秩序に走る以上、自動車相互の調整の失敗に由来する事故も不可避とならざるをえない。おまけに自動車は、等身をはるかにこえるだけの大きさを持ち、人間という種が有する固有の注意力をこえるほどの「高速」で走るために、運転者は十分な注意力を発揮することが出来ない。それ故、自動車事故の不可避性は高まらざるをえない。
 くわえて、自動車の有する運動エネルギーは巨大なものである。それは牛車・大八車の比ではない。運動エネルギーは重量およびスピードの二乗に比例する。だから、死亡事故も避けることができない。
 そして、素人が運転するそうした不安定な自動車が、列車のように隔離された特別な空間を走るのではなく、歩行者――以下、「歩行者」には自転車利用者も含む――が往来するのと同一の空間を疾駆しているのである。仮に列車の線路のすぐわきに生活道路があり、そこが小学生の通学路にもなり、お年寄りの散歩道にもなっていたとしよう。その時、事の異常さは一目瞭然である。だが本質的にそれと同じ事が、現在の社会では許容されているのである。しかも今日、子どもたちの傍らを走る自動車の数はおびただしい。それ故、自動車による対人事故は、そして自動車が有する運動エネルギーの巨大さゆえに死亡対人事故も、少なくとも大枠においてなくすことは決してできないのである。
 実際、毎年発生する自動車事故、死亡事故、対人事故、とくに対人死亡事故は、おびただしい。今、実に「阪神大震災」の死者を上まわる歩行者の命が、毎年クルマのために奪われている。あるいは子どもだけにしぼっても、小学校が一校消滅してしまうほどの命が、毎年クルマのために奪われているのである。

目 次

第1章 もう一つの「交通安全白書」――子どもに何がもたらされたか

江戸時代の交通事情――徹底した人命尊重/今日の交通事情――徹底した人命軽視 (一部上掲)/異常なアンバランス/大人による子どもの「いじめ」/野ばなしにされる「いじめっ子」 ――交通安全教育のおかしさ/「過失」を負わされる子どもたち/一つの事例/事故死半減の代償として子どもが失ったもの/形骸化する子どもの権利条約/無機的な数字の背後にある血の通った現実/「生きる」という言葉すらいやだ/その時はお母さんを呼んで下さい

第2章 環境問題とクルマ社会

 子どもたちから奪われる遊び場/子どもから奪われるあき地・自然/駐車場で遊ぶ子どもたち/道こそ遊び場として望ましい/思う存分遊ぶ大人たち/奪われゆく身近な自然と公共空間/身近な自然の消滅/過剰な舗装願望/排気ガスによる大気汚染/騒音・振 動被害/都市から脱出する都会人/クルマは自然を壊し、クルマ利用者だけがこれを享 受する/エコロジストはクルマがお好き?/環境の一大要素としての社会環境/クルマ による自然の征服/自ら荒々しい環境に/エントロピー問題としてのエネルギー問題/ 「電気自動車」待望論の誤り/クルマ問題の矮小化/小手先の技術の進歩がかえってク ルマ状況を悪化させる

第3章 「西独型対策」と「次世代交通安全システム」

  第六次「交通安全基本計画」
 1、事故原因の科学的分析について
  「事故分析」の本質的欠陥/「事故調査」は何を語るか/事故分析による教訓を身に つけられるか
 2、自動車の安全性強化について
  「安全な車」によって歩行者はかえって危険に/シートベルト着用義務化がもたらしたもの/二つの傍証/「歩行者安全車」の倒錯/脆弱な車体こそ理想的である
 3、救助・救急体制の充実について
  現状への根本的反省がなければ倒錯した対策/「救急救命士」による救命の幻想/救急ヘリコプターの幻想/運転者自身が「救急救命士」となるべきだ/応急処置訓練に意味があるか――救助・救急体制についての総括
 4、VICSとくにカーナビについて
  ITSをめぐる最大の問題/カーナビは安全な空間を根だやしにする/カーナビで歩行者事故が増える/運転中のカーナビ使用をメーカーは前提する/そもそも注意散漫招くものが問われる必要がある/VICS計画の倒錯
 5、AHSについて
  第一段階=危険警告/第二段階=自動運転・操舵/第三段階=自動運転/自動車システムではニアミスは不可避である/車両郡のスピード規制/電磁波の相互干渉による誤作動の可能性/VICS、AHSは歩行者保護のためにこそ

第4章 クルマが優しくなるために――自動車使用のパラダイム転換

 1、自動車使用のパラダイム転換と求められる対策
  今日の状況は日本国憲法に違反する――生命権の侵害/自動車使用のパラダイム転換/新たなパラダイムとそれに基づく自動車対策/走行空間の制限を中心にする/走行空間ならびに走行速度の制限、運転免許の最大限基準/個人のエゴイズムを問題化せねばならぬ/自動車の総量規制、政府の使命/企業活動の規制
 2、今、ただちにできること
  メーカー・ティーラー/自動車学校/クルマ利用者/政府
 3、私は期待する
  弁護士の役割――子どもの生命権の擁護を/医師・医療関係者の役割――「医の倫理ジュネーブ会議綱領」と自動車/教師の役割――尾鷲中事件から学ぶべきもの/国際組織の役割――権利侵害の告発を/行政の責任者への期待

あとがき――「三ない運動」をめぐって

自動車免許取得のためのカリキュラム案