野蛮なクルマ社会

 日常生活の臭いをただよわせた路地ウラを蒸気機関車が疾走する。これは異常な図である(図を参照のこと) 。この手前にもし子どもが歩いていたら、その異常さはさらに高まるだろう。
 むろんこうした状況は、実際にはありそうもないと誰もが感じよう。しかし本質的に同じ状況が、私たちの社会のいたるところで見られるのである。読者はこの蒸気機関車を、自動車に置きかえてみるとよい。するこの図は他ならぬ、日常的に見なれた私たちの身のまわりの風景に一変するであろう。私たちは道という道すべてに、いわば鉄路を敷くという愚を犯したのである。

自動車とはいかなる道具か

 もし、「現代における最大の怪奇」は何かと問われたなら、私はためらわずに、現在成立している自動車の社会システムの異常さを筆頭にあげるだろう。
今日、自動車の私的な所有と使用とが、ほとんど無条件で許されている。一般に私的使用の一定の条件づけとみなされる免許制度も、しょせんはただの通過儀礼であるにすぎない(合計100時間に満たない、いや、ひどい場合には50時間にすら満たない運転免許獲得のための研修が、いかなる意味で有意味な条件でありえるのであろうか)。そのために運転者は今日、基本的にすべて素人であり、まただからこそ運転者の運転の管理、特に専門的管理者による管理などは絶無なのである。しかし自動車は、機械システムとしてみれば、レールをもたないきわめて不安定な道具である。状況の変化に対し、運転者自らが逐一対処せねばならぬだけに、自動車は、予想した軌道をたやすくはずれる道具なのである(それゆえ、自動車事故は不可避とならざるをえない)。だがそれでいて自動車が発揮しえる運動エネルギーは、すなわちそれがもつ破壊力は、一撃の下に人を殺すことができるほどに大きい。それゆえ例えば歩行者は、それに衝突されればむろんのこと、単に接触されただけでも、身体に致命的な打撃をこうむるであろう。
 とすれば、自動車は本来(列車の場合と同様に)厳重に隔離された空間においてのみ、許されるべきものなのではないか。だが今日、その使用は「歩道」上を別とすれば--いな、歩道ですら十分に別であるといえるかどうかは疑問である--何ら制限されていないのである。人は自動車を、ごく日常的な空間にまで当たり前のように走らせる。人は自動車を、いかなる生活道路にも、裏道にも、路地ウラにも平然として乗り入れるのである。
 だがそうした生活道路、裏道、路地ウラには、いったい何があるのか。いや、そこにはいったい誰がいるのか。そこには一般の大人に混じって、お年寄りもいれば子どももいるだろう。時には、目や耳に障害を持つ人とているだろう。ごく幼い幼児とて、そこを歩くだろう。また聴覚の衰えを感じはじめ、あるいは注意力が散漫になりはじめたお年寄りなら、自動車の接近に気がつかないかもしれない。あるいはその接近に気づいたとしても、思うように体を動かすことのできないお年寄りや身障者もいることだろう。しかし今日、そうした場所に、巨大な破壊力を有する自動車が、勝手きままに乗り入れることが許されているのである。そのために今日、生活道路、裏道、路地ウラすら、何と危険な場所に変貌していることだろう。

目次

序 論 まず全体を理解しよう

 1 犠牲(いけにえ)になる子どもたち(一部上掲)
 2 過剰モータリゼーションの結末
 3 私たちに何ができるか

本 論 もっと詳しく知ろう

 第1章 自動車によって道は危険のちまたに
  1 自動車にはシステムの欠陥がある
  2 危険な自動車・危険な無法駐車
 第2章 自動車の害は広範囲に及ぶ
  1 排気ガスが肺をむしばむ
  2 騒音・振動が心もむしばむ
  3 スパイク粉塵(車粉)もいぜんとして深刻だ
  4 ホコリも泥はねも、ガラス公害も犯罪も
 第3章 他の誰よりも子どもやお年寄りが影響をこうむる
  1 子どもは遊び場を奪われて泣いている
  2 お年寄りには利用できるバスがない
 第4章 ハンプで事故は激減する
 第5章 せめて小路は「禁車」にしたい
 第6章 運転は素人にまかせてはいけない
 第7章 何よりもクルマが多すぎる
  1 鉄道や市電をもっと使おう
  2 公害には責任をもってもらおう
  3 自動車会社にも厳しい目をむけよう
 第8章 交通行政を考え直そう
  1 パート警察官を雇わせよう
  2 交通行政も異常だった
  3 「西独型対策」だって異常だ


 あとがき
 事項索引